古代都城の正方位測定法がインディアンサークル法ではない根拠


     
    1. はじめに

       平城京や平安京のように,日本の主な都城は真北を向く正方位で方形の都市である。その真北からのずれは表1にまとめたように,近江大津宮や恭仁京のように急造の都を除けば,真北の西20分と東20分前後を中心に分布している。その正方位を得るためにどのような測定法が用いられたかは未だ確定していない。HPや論文などでは,太陽を用いたインディアンサークル法が用いられたと推定するものがほとんどであるが,実は2008年に発表された,藤原京と平城京の発掘遺構からえられた方位データの解析結果はそれを明確に否定している。この解析結果は周極星を用いた同様の測定法も同じく否定する。
       このページでは推定されている方位測定方法と発掘データによりそれらが否定される理由を解説する。

      表1 都城と大道の造営時代と方位一覧
      史跡 創建年代等 天皇名(創健者) 正方位 偏位 数値(真北からの角度) 方位の出典
      百済宮(百済大寺) 640 舒明 (○) 酒井龍一(2011)p.17
      飛鳥板葺宮 643 皇極 酒井龍一(2011)p.17
      前期難波宮 652 孝徳 23分39秒*2 李陽浩(2005)p.93
      難波大道 (653以降?) (孝徳 or 斉明) 26分22秒*2 李陽浩(2005)p.94
      大和3古道 (654頃?) (斉明?) 西 25分(下ツ道) 須股孝信(1994)p.321
      後飛鳥岡本宮 656 斉明 酒井龍一(2011)p.17
      近江大津宮 667 天智 西 約1.5度 宇野隆夫(2010)p.49 図6
      飛鳥浄御原宮 672 天武 酒井龍一(2011)p.17
      藤原京 694 持統 西 41分51秒*1±24分 小澤毅(2016)p.11
      平城京 710 元明 西 19分36秒*1±4分55秒 小澤毅(2016)p.11
      大宰府政庁Ⅱ期(中軸線) (713頃?) (元明) 18分20秒*3 井上信正(2009)p.19
      後期難波宮 726 聖武 16分14秒*2 李陽浩(2005)p.93
      恭仁京 740 聖武 西 約1度 宇野隆夫(2010)p.49 図6
      長岡京 784 桓武 西 7分 宇野隆夫(2010)p.45
      平安京 794 桓武 西 22分55秒±48秒 宇野隆夫(2010)p.43
      *1 筆者が直角座標の補正・西偏6分を加えた。
      *2 筆者が難波宮大極殿での直角座標の補正・西偏16分17秒を加えた。
      *3 筆者が太宰府政庁での直角座標の補正・西偏16分04秒を加えた。


    2. 推定されている正方位測定法
    2.1 インディアンサークル法
       インディアンサークル法は図1のように日時計と同じく棒を垂直に建てて,午前と午後で同じ名側の影になる点を結べば,真東西線がひけるというもので,この線を2等分する線を引くと,真南北線となる。したがって,東西線より南北線の方が2段階手順を踏む分誤差が大きいことになる。
図1 インディアンサークル法

    2.2 周極星を使うインディアンサークル法
       次の方法は太陽の代わりに周極星を使う方法である。『周髀算経』にある大星と呼ばれる帝星(β UMi)などを使うもので,「北極璿璣四游(ほっきょくせんきしゆう)」と呼ばれる方法。棒に紐をつけておき,周極星が最東端にある時と,最西端にあるとき,紐を目見当で地面まで伸ばした点をを結ぶと真東西線が引けるというもの。これを2分割する線を引くことで同様に真南北線が引ける。インディアンサークル法と同様に東西線より南北線の方が誤差が大きい。しかし,太陽を使う場合より目見当で線を引くため精度が落ちるのは言うまでもない。さらに,星が最東端と最西端にあるのを一晩で観測できるのは,冬至前後の数日間しかないので,この方法は理論的説明に留まるものである。

       この方法を誤って『極星法』と読んでいる文献がみられるが,極星(Pole star)は天の極(Pole)に近い星のことであり単純な間違いである。『周髀算経』も用いる星を「大星」(明るい星)と呼んでおり「極星」(Pole star)ではない。『周礼・考工記』などに残る「極星」を用いた測定法は「極星」(北極星)を用いて直接方位を測定する方法であり,混同が見られる。

    2.3 周極星を使い北極点を見つける方法
       北宋の沈括(1031~1095)の回顧談である『夢渓筆談』(127条)にある方法で,北極星を円筒で観測し,天の北極点を見つける方法である。沈括の時代の北極星は図2のように北極点からの角度が1.5°なので,3°より少し大きい円筒を用い,その円筒から星が外に出ないように調整することで北極点を見つける方法である。筒から等角度で星がはずれなくなったら円筒は真北を向いていることになる。これは天体観測に用いる渾天儀の設置に用いられた方法である。しかし,星は一晩に最大で半周程度しか動かないので,正確に測定するには観測に時間がかかる。沈括の場合3ヶ月かけて北極点を確定したとしている。この方法は直接南北を測るので,東西線の方が誤差が大きい。この方法は真北を測定することができるが,短期間でその方向を確定することはできない。
図2 北極に向けた円筒のイメージ
       『周髀算経』に載る「北極璿璣四游」は,前述のように太陽の代わりに帝星を使ったインディアンサークル法と解釈されている。しかし,璿璣四游(渾天儀の四方を巡る)の字の如く,実は渾天儀を正しく真北に向けるために,更に大きな半径10°程度の円筒に帝星を巡らせて,真北を測定する方法と考えられる。

       帝星の含まれる星座が『北極』と呼ばれていたことで、帝星が『周髀算経』で北極星と呼ばれているとする誤った解釈もあるが、古代中国での北極星の呼び方は『極星』(Pole Star)であり、『北極星』という呼び方は近世になって日本から中国逆輸入されたものである。実際には、『周髀算経』で帝星は、北極中大星(星座・北極の中の明るい星)と呼ばれているだけである。帝星を古代の北極星とするのは近代の解釈であり、帝星を極星とする古代の文献は無い。例えば、『科学の名著 2 中国天文学・数学集 周髀算経』p.323では、原文にある星座『北極』を北極星と訳して、北極星が極の周りを周回しているように訳しているが、これは完全な誤訳である。周回しているのは、星座である『北極』である。この本の誤訳により、帝星が北極星であると誤解している読者も多いだろう。 (2023/08/11追記)

       『周髀算経』の原文をみると、

        『欲知北極樞,璿(璣)周四極。常以夏至夜半時北極南游所極,冬至夜半時北游所極,冬至日加酉之時西游所極,日加卯之時東游所極。此北極璿璣四游。正北極璿璣之中,正北天之中。』

       とあり、北極樞(星座北極の樞星:極星)のまわりを東西南北に巡っているのは、『北極星』ではなくて『星座の北極』である。また天極を北極が回っているのであるから、ここでいう北極は天極でもない。(2023/09/18追記)

    3. 発掘遺構からえられた方位データの解析結果

       入倉徳裕著「平城京条坊の精度」(奈良県文化財調査報告書第131( p.96-116 (2008))p.99の表15及び表16には藤原京と平城京と条坊の方位の精度の表がある。これはそれぞれの都城での各条坊路の方位を十数件ずつ計算し,平均値とその標準偏差をまとめたものである。表2はその解析データを引用したものである。図3は表2をグラフ化したものであるが,この図から以下の点が判明する。
        1)標準偏差が南北より東西が大きいので,方位測定方法は東西から南北をえる測定法ではない。
         ⇒都城造営に用いられた測定法は南北方位を直接測定する方法である。
        2)分布(平均値±標準偏差)の中心が真北ではないので,方位測定方法は真北を測る測定法ではない。
         ⇒用いられた測定法は真北からのずれを固有している。
        3)2つの都は工事の精度(誤差)は違うが同様の分布の傾向なので,同じ測定法が用いられている

       解析結果により,東西から南北を測定するインディアンサークル法や「北極璿璣四游」と呼ばれる測定方法は都城の造営方位の測定方法ではないと明確に否定される。また残りの周極星により北極点を見つける方法も真北からの固有のずれを持たないので否定される。以上により,現状推定されている上記項目2で説明した3つの測定方法は,いずれも都城の造営の方位測定法ではないことが確定する。

       宮原 健吾/臼井 正(2006)p.354では,平安京と平城京の振れが西偏22~23分でほぼ等しい理由の一つとして4番目に,「4. 方位を決めるとき,系統的に23分振れる方法があるか?(我々は思いつかないが)」をあげているが,このデータはまさにその「系統的に振れる方法」で測定されたことを示している。

    表2 条坊の方位 
    都城 データ 件数 平均(西偏) 標準偏差
    藤原京 東西条坊 13 -38'12" 30'47"
    藤原京 南北条坊 13 -33'30" 15'31"
    藤原京 全体 26 -35'51" 24'00"
    平城京 東西条坊 17 -11'12" 5'16"
    平城京 南北条坊 14 -16'32" 2'09"
    平城京 全体 31 -13'36" 4'55"
    注:入倉徳裕(2008)p.99表15と表16から抽出したデータ。 東西方向は東で北を向いていることを意味する。真北との偏位角は直角座標の偏位分の6,7分をさらに平均値に加える必要がある。
図3 条坊の方位の分布
(直角座標の補正済み。垂直方向に意味はない。)

 

    4. これまでのインディアンサークル法の説明には都城の方位測定法とする根拠がない

       古代にインディアンサークル法が用いられたとする論文は,実験によりインディアンサークル法では真東西の測定に誤差が数分,それに直角な真南北線を引くのにさらに数分で合わせても真北から10分程度の誤差で測定ができたことをその根拠としている。しかしその場合,図3のインディアンサークル法のイメージ図のように南北条坊の分布が東西条坊より大きく,分布の中心も真北となる。藤原京と平城京の分布は,都城の造営に用いられた方位測定法は,そのような東西から南北を測る測定法でないことを明確に示している。

       水谷慶一著「知られざる古代」(1980) p.318-320にある,三重県松坂市で一回だけ測定された実験(約5km離れた地点間で真東西からの誤差が20.6m (13.75分))が,その精度から,インディアンサークル法が都城の造営方位の測定に用いられた根拠として参照されることが多い。しかし,この測定を複数回行っていればその結果は図3のインデイアンサークルの測定値の分布のイメージと重なっていただろう。なので,この実験はインディアンサークル法が古代都城の造営方位の測定に使われた根拠とはならない。

       また,平城京や平安京が真北より22分前後ずれているのは,下ツ道(西偏約17分)の方位にならったとする見かたがあるが,その場合図3の藤原京の測定法が説明できない。さらに,表1の難波京や大宰府政庁のようにほぼ同じ角度で逆に振れる東偏の都や難波大道の理由ははさらに説明不能となる。インディアンサークル法では都城ごとに違う偏位の違いを説明できず,偶然で起きないことも前述の通りである。これまでの論文では,この基本的な事実を無視している。


    5. 漢代に用いられた日影による方位計とその使用目的
       上記のインディアンサークルの実証実験は精度をあげるために,2~3mの大きな円を描いて行われている。しかし,発掘されている漢代に使われていた日影で方位を測る器具は,図4の写真のような手で持ち運びができる数10cmの石板である。この石板は「日時計」と説明されているが,時計として使用するためには,太陽の移動角を時刻に比例するように,中央に立てる棒を北極星に向ける必要がある。その場合冬の間は表面に日がささないので,裏面にも目盛りを刻む必要があるが,この石板の裏には目盛りはない。この石板は正確に360度を100等分した目盛りが刻まれており,水平においたのでは,時刻を測るときにこの目盛りは用をなさない。

       水平の面にたてた棒の先端の影は図5のような動きをする。図のように,同じ時刻の点を結んだ線が集まるのは円の中心ではない。水平に置いた日時計の時刻を,中心にたてた棒の影を使い,円形に刻んだ目盛りで読むことはできないのである。水平に置く日時計は図5の日陰の動きにあわせて,図6のポンペイ出土の日時計のように,扇形の形状になる。

       したがって,この石板は時刻を測定したのではなく,太陽の方位を測定したものである。目盛りには番号がふってあるので,例えば日の出と日の入りの番号の平均を取れば,その番号の穴と中央の穴を結ぶ線が南北線となる。観測精度は数度と考えられ,これからわかるように,漢代でも日の影で得られる方位の精度には期待していない。


      図4 漢代の方位測定器具
      【林 巳奈夫著「漢鏡の圖柄二、三について」
      p.5 図4a 漢日時計 東方學報 (1973) 44】より


      図5 日陰の方位

      図6 ポンペイ出土の日時計 荒川紘 「日時計=最古の科学装置」海鳴社(1983)p.18

    6. 『『周礼』「考工記」匠人営国条』の解釈

       『(周禮)考工記』では「為規識日出之景與日入之景。夜考之極星,以正朝夕。」[日の出,日の入りの影で東西をもとめ,夜極星(北極星)で北の方位を定め,朝夕(東西)を正す]とし,日影で測定した東西の方位を,夜北極星を観測して得られる南北方位で修正するとしている。

       古代の都城の方位がインディアンサークル法で測定されたと考える人は、この文の前半の太陽の影で東西を測定する部分だけ訳して説明して、後半の極星については触れていない。しかし、後半では『夜極星(北極星)で北の方位を定め,朝夕(東西)を正す』として、最終的な方位は極星で南北を決め、昼間に太陽で求めた東西を修正している。すなわち、都城の方位はインディアンサークル法ではなく、極星を用いて測定しているのである。したがって『『周礼』「考工記」匠人営国条』は、インディアンサークル法による都城の方位測定の根拠ではなく、逆にそれを否定する文なのである。(2023/08/11追記)

       現代人からみると,最初から北極星で測定すればよいのではと考えてしまうが,春秋から漢代の北極星は、北の空に輝く星ではなく、6.0等星(HR4927)なので,北の空を漫然と眺めただけでは特定できない。北極星を探す範囲を真北の限られた星域に絞り込んでおく必要がある。そのための日の影を測る観測器具が図4の石板である。現代では「古代中国の北極星は明る星である帝星(β UMi )」であるという誤った先入観があり,『(周禮)考工記』の記述を全く理解することができず,『(周禮)考工記』の記述の主体である極星を用いた方位測定の記述は無視され,インディアンサークル法の部分しか注目されていない。そのため古代の方位測定方法は解明されてこなかった。

       薮内清 「難波宮創建時代の方位決定」大阪市立大学難波宮址研究会研究予察報告2 (1958)p.79-82も『(周禮)考工記』の記述を引用し,聖武天皇の後期難波宮創建(726着工)にあたって唐代の北極星(HR4893, 5.3等星)が使われた可能性に言及しているが,正確な星図が無かった時代に北極星を同定するにはすぐれた天文学者の存在が前提となり,また当時難波宮の方位とされた真北から数分に限れば当時の北極星の観測からは得られないとして,太陽を用いて方位を測定するインディアンサークル法が恐らく唯一の方法としている。しかし,『(周禮)考工記』のまず日影を用いて東西の方位の測定から北の方位を求めることの意味を考えれば,指導を受け訓練すれば,北極星をみつけるのに正確な星図やすぐれた天文学者は必要ないことがわかる。

       このような,「古代には,北極星がないのだから,または,北極星が利用できないのだから,古代の方位測定法は太陽や周極星を用いたインディアンサークル法である。」という安易な理解や説明が,入倉徳裕(2008)の発表以降にも行われている。


    7. まとめ

       藤原京と平城京の造営方位の測定に用いられた方法は従来推定されているインディアンサークル法を含む上記3つの正方位測定法のいずれでも無いことが,入倉徳裕(2008)により確定している。

       真北からの固有の偏位をもつ都城は表1にあげたように,藤原京や平城京だけではない。推定される測定方法により,それぞれの都城の固有の偏位の角度が説明できないと,都城に用いられた造営方位の測定法であるとは証明できない。これまで,インディアンサークル法ではそれを「偶然」で済ましていたことになるが,入倉徳裕(2008)により,都城の条坊遺構の真北からの振れの分布はインディアンサークル法を用いた方位測定法では起き得ないことが明確に示されている。

 

参考文献
井上信正「大宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナル 588 p.19-23 (2009)
宇野隆夫 「ユーラシア古代都市・集落の歴史空間を読む」勉誠出版(2010)
小澤毅 「日本古代の測量技術をめぐって」ふびと 三重大学歴史研究会 67 (2016)
柏原市文化財課 「難波より京に至る大道を置く」(2019年11月10日) (http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2019063000016/?doc_id=11119)
酒井龍一 「蘇我馬子の都市計画: 画策は槻の広場でいたすべし」奈良大学文学部文化財学報(2011)
須股 孝信「大和条里計画の使用尺度と測量技術に関する検討」土木史研究 14(1994)
宮原 健吾/臼井 正 「日本古代の墳墓と都城―位置と方位を中心として―」世界の歴史空間を読む 24 (2006)
李陽 浩 「前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」難波宮址の研究 13 (2005)


2023/09/18 追記
2023/08/11 追記
2021/06/08 掲載

Copyright(C) 2021-2023 Shinobu Takesako
All rights reserved