『(周禮)考工記』では「為規識日出之景與日入之景。夜考之極星,以正朝夕。」[日の出,日の入りの影で東西をもとめ,夜極星(北極星)で北の方位を定め,朝夕(東西)を正す]とし,日影で測定した東西の方位を,夜北極星を観測して得られる南北方位で修正するとしている。
古代の都城の方位がインディアンサークル法で測定されたと考える人は、この文の前半の太陽の影で東西を測定する部分だけ訳して説明して、後半の極星については触れていない。しかし、後半では『夜極星(北極星)で北の方位を定め,朝夕(東西)を正す』として、最終的な方位は極星で南北を決め、昼間に太陽で求めた東西を修正している。すなわち、都城の方位はインディアンサークル法ではなく、極星を用いて測定しているのである。したがって『『周礼』「考工記」匠人営国条』は、インディアンサークル法による都城の方位測定の根拠ではなく、逆にそれを否定する文なのである。(2023/08/11追記)
現代人からみると,最初から北極星で測定すればよいのではと考えてしまうが,春秋から漢代の北極星は、北の空に輝く星ではなく、6.0等星(HR4927)なので,北の空を漫然と眺めただけでは特定できない。北極星を探す範囲を真北の限られた星域に絞り込んでおく必要がある。そのための日の影を測る観測器具が図4の石板である。現代では「古代中国の北極星は明る星である帝星(β UMi )」であるという誤った先入観があり,『(周禮)考工記』の記述を全く理解することができず,『(周禮)考工記』の記述の主体である極星を用いた方位測定の記述は無視され,インディアンサークル法の部分しか注目されていない。そのため古代の方位測定方法は解明されてこなかった。
薮内清 「難波宮創建時代の方位決定」大阪市立大学難波宮址研究会研究予察報告2 (1958)p.79-82も『(周禮)考工記』の記述を引用し,聖武天皇の後期難波宮創建(726着工)にあたって唐代の北極星(HR4893, 5.3等星)が使われた可能性に言及しているが,正確な星図が無かった時代に北極星を同定するにはすぐれた天文学者の存在が前提となり,また当時難波宮の方位とされた真北から数分に限れば当時の北極星の観測からは得られないとして,太陽を用いて方位を測定するインディアンサークル法が恐らく唯一の方法としている。しかし,『(周禮)考工記』のまず日影を用いて東西の方位の測定から北の方位を求めることの意味を考えれば,指導を受け訓練すれば,北極星をみつけるのに正確な星図やすぐれた天文学者は必要ないことがわかる。
このような,「古代には,北極星がないのだから,または,北極星が利用できないのだから,古代の方位測定法は太陽や周極星を用いたインディアンサークル法である。」という安易な理解や説明が,入倉徳裕(2008)の発表以降にも行われている。