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1. はじめに
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2. 下ツ道
2.1 下ツ道の例
図1は野上氏の論文に掲載のデータを用いて描いた下ツ道の例。測定点は国土地理院のサイトを利用して読み取ったとされています。この図のように、下ツ道は、大和平野南部の葦原峠を目標に南北直線道路を敷設したと推定しています。
しかしこの図は、下ツ道が直線道路であることを前提に作成されていることに問題があります。以前から考えられていた、平城京の朱雀門と丸山古墳の北側全面を結ぶ直線と思想的には変わっていません。
下ツ道は橿原市等の発掘調査で、藤原京内の下ツ道の方位の振れが、北部の振れの倍近く違うのが分かっています。しかも、その方位の振れは、この野上氏の地上面の道路から得られたデータにも現れています。
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図1 下ツ道の例
[推定線と式は筆者がExcel標準機能で追加した。]
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2.2 下ツ道の区分
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図2 下ツ道区分図
[推定線と式は筆者がExcel標準機能で追加した。]
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下ツ道が敷設される頃には、横大路は基準ではなく、筋違道が機能していたということにより、推古天皇の時代の最古の官道も、難波から難波大道を通り竹内街道から横大路の道ではなく、難波から南に進み、太子の四天王寺で東に折れ、大和川沿いを太子の斑鳩宮まですすみ、太子道で小治田宮に入る道だったことが確定します。難波から竹内街道への難波大道も下ツ道と同じ650年頃なので当然といえば当然の話ですが。観光振興のために史実を曲げるのはやめましょう。
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3. 中ツ道
3.1 中ツ道の例
図3は野上氏の論文に掲載のデータを用いて描いた中ツ道の例です。野上氏はこの図のように、中ツ道は大和平野北部の北緯35度付近にある丘陵の小丘Dを目標に南北直線道路を敷設したと推定しています。野上氏の論文の図では北緯34.5度以北が描かれています。
この中ツ道は、三輪神社を始点として、平城京2条4坊11坪までを描いています。しかし、中ツ道がどこを通っていたのかは、南部での発掘がないため現在でも明確ではありません。三輪神社横が中ツ道とするのは、岸氏が藤原京説を唱えた時に東の極がこの中ツ道としたことがきっかけです。しかし、その根拠はありません。しかも、現在藤原京は岸氏の藤原京説より倍も広かったことが判明しています。岸氏藤原京説が消えた現在も、岸氏の唱えた中ツ道はそのまま残り定説になってしまっている状態です。
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図3 中ツ道の例
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野上氏が山当て説を推すのであれば、当然中ツ道の目標とされた山は、香具山しかありません。香具山を当て山として、北に推定路を弾いて欲しかったです。しかし、図を見ると、野上氏の中ツ道と香具山々頂の方向は真逆となっています。これにより、偶然線上にあった北の方の名もない丘を目標にしたことにされたのでしょう。
なお、野上氏は本文で、「なお中ツ道の延長線は香具山に当たるが、起点(No23三輪神社)から香具山は近すぎて山当ての目標にならない。」としています、図3の中ツ道は、香具山の山頂とされる山頂神社から、100mあまりも東の稜線に当たるであって、線の通過するのは山頂ではありません。また、三輪神社から香具山山頂までは、約1.7kmで標高差70m程度なので、仰角2.4度となり、山当てに近すぎるという距離でもありません。
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3.2 本来の中ツ道
図4はオレンジで筆者がすでに発表している発掘結果と中ツ道周辺の神社を結んだ中ツ道を追記したものです。香具山山頂を通り、不自然な点もありません。この結果が注目されないのは、いまだに岸説の中ツ道が疑いもなく信じられているからです。三輪神社の脇を通っているのは、中ツ道ではなく藤原京の条坊路にすぎません。2010年代の始めに、三輪神社の南で道路の遺構がみつかり、「中ツ道の遺構」と騒がれましたが、それは藤原京の条坊路の跡にすぎなかったのです。
中ツ道は藤原京より数十年前に敷設されているため、藤原京時代の尺度系(条坊間隔を含め)が、中ツ道と同じという仮定がそもそも間違っていたのです。
中ツ道という古道と、藤原京の新条坊路が100m近く食い違っているとしたら、その食い違いの段差を埋める斜めの連絡路があったと想定されます。実は、その連絡路が現在でも地表に道として残されています。
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図4 本来の中ツ道
[推定線と式は筆者がExcel標準機能で追加した。]
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3.3 中ツ道と藤原京条坊路の段差を埋める連絡路
図5は中ツ道と藤原京条坊路の段差を埋める連絡路の付近のGoogleMapの写真です。この場所は藤原京を北に出たすぐの所で、段差を埋める通路を造るなら最適の場所です。中ツ道を研究した、井上和人氏も、趣旨は違いますが、これは中ツ道の痕跡としています。いずれにせよ中ツ道は竹迫推定の左側でした。
これにより、中ツ道は香具山を起点として、北極星を用いて正方位測量法により測量されたことになります。香具山は当て山としても使えそうですが、飛鳥時代の当時には正方位測量法で北まで測量して敷設されたでしょう。別に当て山は必要ないのです。
またこれにより、中ツ道は三輪神社(藤原京の条坊路)の西100mぐらいにあったわけで、岸説の「大和の3古道は等間隔で同時期に敷設された」という「定説」も、誤りとなります。
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図5 中ツ道と藤原京条坊路の段差を埋める連絡路
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3.4 中ツ道は条里制の基準
図6は『大和国条理復元図』の連絡路付近の図です。この図から分かるように、連絡路の北側の道は条理の堺になっていて、この図にも中津道とあるように、中ツ道は下ツ道とならんで条理制の基準でした。この図からも図5の竹迫の推定中ツ道が、ただ線を引いただけの推定線ではないことが分かります。
では、なぜこの線が基準になっているかというと、条里制は藤原京の条坊路を無視して、下ツ道と中ツ道を基準に実施されたからです。
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図6 連絡路付近の条理図
【『大和国条理復元図』No.76】
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4. 古代の測量法について
これまで日本の古代での測量法は、太陽を使ったインディアンサークル法や、帝星のような周極星を使ったある種のインディアンサークル法と考えられていました。その理由は古代の数学・天文の文書である『周髀算経』に記載されていたからです。しかし、皇帝の居城などに用いられている、北極星を用いた方位測量法は、禁忌とされ一般に公開されることはありませんでした。都城を天帝の居る北極星を向けて造営するのは、皇帝が正しく天使から天命を受けた存在である正当性を示すためでした。
北極星による方位測定法が公開されたのは、宋代の『営造方式』という宮の建築書においてでした。これは、天命思想がそれまでの、天文学的規範から実践的規範に変わったためです。ただし、北極星で測定するタイミングについて伏せられており、これまで、その謎は解けていませんでした。
北極星で方位を測定するのは、天命思想という皇帝の統治思想にかかわることでした。天命思想の下では、皇帝や天皇の関係する都城、宮、道路等の測量に北極星以外を使う方法はありえないわけです。この天命思想は、百済大宮に併設された百済の大宮が正方位で造営されていることから、日本へは632年の第一回遣唐使の帰国時に伝来したと考えられます。また、すでに筆者が公開しているように、北極星を用いた宮や南北直線道路の方位は、計算結果と±3分ぐらいの誤差でおさまっている。
野上氏の提案している方法は、太陽を使う方法であり、さらに方位の誤差も偶然に大きく左右されるものであり(±30分?)、天命思想伝来後の測量法とは言えません。
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5. まとめ
中国の春秋時代から中世までの都城の造営には,北極星による方位測定法が用いられていた。北極星による測量法は天命思想の基盤技術でした。正方位の都城は天命を受けて統治する天命思想を具現化する王朝儀礼の舞台でした。日本での宮の正方位化は単に造営法式の伝来ではなく,天命思想の伝来を意味していました。
日本ではながらく、古代の方位は太陽による測量とされていたため,宮の正方位化と大極殿などが関連付けされることがありませんでした。しかし,実際には舒明天皇の時代に天命思想に基づく正方位の造営法式や基盤技術が一体として伝来し,導入されるとともに,大王を神聖化した,天命思想の王朝儀礼を行う「天皇」が生まれていました。『日本書紀』に事責の記載がないため、存在が薄い舒明天皇ですが,最初の遣唐使の派遣により,天皇の直接統治につながる重要な基盤を築いていました。『古事記』が推古朝で終わっているように,次の舒明朝は天皇を戴く新しい王朝のはじまりでした。
したがって、天命思想が伝来した632年以降、日本でも天皇関連の正方位の宮殿・宮や直線道路を、天命思想に基づく北極星で測量することは当然のことでした。その他の方法で測量することは、思想的にも間違いです。北極星と28宿距星を用いる正方位測量法は、時期によらず、一晩で真北に近い方位が得られる測定法です。
当てる山など気にせずに、目当ての距星が南中した時に、北極星の方向を「北」として測っていたにすぎません。
なお下ツ道の方位や年代推定の詳細はこちらを参照ください。
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