正しい方位で読む『魏志倭人伝』 「邪馬台国はやはり筑紫平野」


     
    1. はじめに

       邪馬台国の場所について、同じ『魏志倭人伝』を読んで、九州説、畿内説、四国説等々、いろいろな説が出ているのが不思議で、『魏志倭人伝』を読んで地図に書いてみた。Youtubeには「素直に『魏志倭人伝』を読んで考えてみる」とか言った動画もあるが、見てみると、「測定距離と合わないからこう考える」とか、全然素直に読んでない動画にあふれている。そこで、ここには、記述通りだとうどう解釈できるかという方向で解読してみた。
       また、古代は太陽で方位を測り、季節で方位が違い、『魏志倭人伝の』南は東という説がある。しかし、中国では、孔子より前の春秋時代から北極星で方位を測っているので、方位を間違える理由はない。現代の先生たちが、古代には北極星は無く、太陽で測っていたという間違った教えが影響しているのだろう。

    2. 『魏志倭人伝』詳細

      以下が『魏志倭人伝』の章の全文。位置に関係あるところだけ色付けしてみた。

      橙字:概略の位置情報 赤字:行程:方位・距離 青字:行程:水行/船行
      ①倭人、在帶方東南大海之中。依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絕島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戶。②自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。③此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里。

      男子、無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。後、稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 ④計其道里、當在會稽東冶之東。其風俗、不淫。男子皆露紒、以木緜招頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無、與儋耳朱崖同。倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作冢。始死、停喪十餘日。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人。如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺之。謂、其持衰不謹。出真珠、青玉。其山有丹。其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香。其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。有獮猴、黑雉。其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法。視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戶或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戶及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國。於國中、有如刺史。王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。傳送文書、賜遺之物、詣女王、不得差錯。下戶與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭說事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰「噫」比如然諾。

      其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。

      女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。⑤參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里。

      景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月詔書報倭女王、曰「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬。裝封、付帶方太守、假授汝。其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利、涉遠道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬。引見勞賜、遣還。今以絳地交龍錦五匹、註12-01絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。皆裝封、付難升米牛利還。到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也。」

      正始元年。太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國。拜假倭王、幷齎詔。賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物。倭王、因使上表答謝恩詔。其四年倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等、壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。其八年太守王頎、到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡、說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書、黃幢。拜假難升米、爲檄告喻之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服。更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。政等、以檄告喻壹與。壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

      評曰。史漢著朝鮮兩越、東京撰錄西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸鮮卑。爰及東夷、使譯時通。記述隨事、豈常也哉。

      【https://www.seisaku.bz/sangokushi/30_touiden.html】より


    3. 行程を図解してみる

       上の記述を図にしたのが下の図だ。まず前提条件として、倭人伝の前の章にある「韓」から、韓(諸)国は方4000里(4000里四方)を使っている。次にオレンジ色の記述より、だいたいの位置関係が決まる。①倭国は帯方郡の東南。②戸数道里を書いた北九州の南に女王国(邪馬台国)はある。③その他女王諸国の南に、女王国に属さない狗奴国がある。④道里を集計すると、會稽東冶の東にあるようだ。⑤倭国は海中の中洲島であり、5000里である。(これは韓諸国と同じく、5000里四方と解す) ④については台湾中部の緯度となり、色々と論争があるが、「道里を集計して比べた」とあるように、中国と倭国が2つとも描かれた地図を持ってなかったことがわかる。したがって、倭国は中国南部の東の海にあるという意味しかない。【後述のように『魏志倭人伝』では1里が90m程度の換算となる。ソウル(帯方郡)から台湾北部(會稽東冶とほぼ同緯度)の緯度までは1300km余りであり、12000里としても、そんなに違うわけではない。】
       これらの記述から、倭国の範囲はほぼ九州とその周りの小島という理解だったことになる。

       行程はまず、韓(諸)国の北にある帯方郡を起点としてはじまる。韓(諸)国の海岸線をまず南に(4000里)、そして東に(3000里)、合計で7000里行くことで、狗邪韓国に着く。直線距離という説もあるが、斜めに進むと一辺4000里ということから、最大5700里にしかならない。そして、朝鮮海峡を3000里で渡り、末廬国に着く。ここが、1000里x3であることから、記述するのに参考にした地図は概略図だということが分かる。そして、海岸沿いの陸路を、伊都国(500里)、奴国(100里)、不彌国(100里)と進む。ここまでの合計が10,700里となる。

       ここで、魏志倭人伝』の里と現代の距離(m)の換算をしてみると、表1のように、10700里が935kmとなり平均で90m/里程度である。中国のこの時代の里は400m余りとされるが、どの距離も35mから200m/里とアバウトな数字である。これは、よくなされている短里/長里という話ではなく、単に使った地図の縮尺が正しくなかっただけだろう。 表1 『魏志倭人伝』の里とmの換算表

      このあとは、「南至投馬國、水行二十日。」「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。」と距離と方位ではなく、旅程表示に変わっているため、「畿内説」では議論では、「距離と方位」を無視し、「旅程」のみの議論に発散させるわけである。しかし、これは具体的な数字を持っていなかったので、旅程に変えたのだろう。

       最後に「自郡至女王國、萬二千餘里。」とあり、これまでの10,700里に加え、あと1000里ばかりのところに、邪馬台国があることに変わりはない。大体の位置は知っていたのだろう。したがって、邪馬台国は、北九州の沿岸から100kmぐらいのところにあることになる。

       また、「水行・陸行」については、帯方郡からの旅程で考えると、末廬国までが水行10日。投馬国までは水行10日のところだろう。大分か宮崎あたり。邪馬台国までは末廬国から1ヶ月。筑紫平野の南、大牟田市あたりとなる。

       大和に邪馬台国を持っていくために、南を西に改竄する議論があるが、その根拠が、15世紀の李氏朝鮮で描かれた、中国から入手した地図に、拡大した朝鮮半島と方角を間違えた日本を加えた地図という。藁をも掴む感じが出ている。


    4. まとめ

       ここで素直に読んで見たように『魏志倭人伝』を改竄せずに普通に読めば、邪馬台国は筑紫平野の南にあって何の不思議もない。距離や方位がいい加減という意見もあるが、3世紀の主要都市の位置関係を地図で再現できるのだから、精確といえるだろう。地図をひっくり返して、邪馬台国を関西に持っていくのは滑稽というしかない。


    2024/10/12 図を修正
    2024/09/30 掲載

    Copyright(C) 2024 Shinobu Takesako
    All rights reserved