5. 定説「中ツ道は京道地割を通っていた」の検証



 

1.はじめに

 平城京の九条の外に京道という字があり中ツ道の跡と考えられてきた。しかし、2007年6月に発掘により、十条大路跡の発見が報道され、この京道地割も当初の平城京内の道であったことが判明した。

 図1に京道地割の位置を示す。黄色の線が下ツ道から2118m離れた想定される中ツ道。オレンジの線が中ツ道関係の神社と発掘点を結んだ中ツ道実ルート。紫の線が平城京の条坊路となる。

 図1でオレンジの実中ツ道は南の池田町発掘地点を通り,平城京の四坊大路から一筋西にある四坊東小路に接続されている。そして,中ツ道と京道地割の中心とは約33m離れていて,中ツ道の実ルート上に京道地割は無いことが分かる。定説となっていた,「京道は中ツ道説」は誤りで、京道は平城京の坊路の跡であった。

図1 京道地割の位置

[Google Earth Proより]


2.京道は平城京への接続路

 京道が中ツ道と関係した道とすると,京道と中ツ道は南の発掘地点との間で接続されていることになる。そこで京道を南に延ばしたのが図2である。この京道の延長路の最南端を拡大したのが図3である。現在でも,池田町発掘地点の約200m北で道が不自然に急に西に寄っていることが分かる。これが,中ツ道が平城京の京道に接続された時の接続路の名残になる。

 京道は平城京に越田池(現在の五徳池)が造られたときに,九条から十条の四坊東小路を西に移した坊路の延長路であったことが分る。したがって,京道地割は中ツ道の跡では無い。

 

図3 中ツ道と京道の接続地点の拡大図

[Google Earth Proより]

 

図2 京道の延長図

[Google Earth Proより]

3.まとめ

 定説「中ツ道は京道地割を通っていた」を検証したが,京道は中ツ道ではなく,平城京の坊路の跡であることが判明した。

 想定中ツ道と京道の間隔は東西に約153m離れている。横大道から平城京の入り口まで約15kmなので,下ツ道より約35分も西に振れていることになる。下ツ道は真北より約24分西偏なので,中ツ道は約1°真北から西に振れていることになる。
 しかし,約153mのずれのうち約33mは平城京との接続路,約88mは藤原京との接続路で発生している。したがって,中ツ道は横大道から平城京の入り口まで約32mしかずれていないことになる。これにより,中ツ道が下ツ道より振れているのは8分弱だけである。そして,この下ツ道や上ツ道との8分弱の方位の違いが建設年代が違うことをしめしている。

 中ツ道の西への大きな振れは工事の精度とされているが,実際にはその大部分は藤原京と平城京への接続路で発生している。中ツ道が西へ大きく振れているという誤解は,藤原京や平城京の坊路が誤って中ツ道と認識されていることによる。中ツ道は建設年代が違う下ツ道を基準とした藤原京や平城京の条坊路とは「当然」食い違うのである。



2023/03/19 一部修正
2021/06/17 項目3を修正
2021/06/07 UP
Copyright(C) 2021 Shinobu Takesako
All rights reserved