1. 定説「下ツ道は見瀬円山古墳が起点である」の検証



 

1.はじめに

 岸俊男は下ツ道は丸山古墳の墳丘を避けるためにやや西に寄っているが,それ以南ではもはや直線コースをとらず屈曲しながら南に向かっていると指摘した。(項目8参照)
 右の写真は終戦直後の米軍が撮影したものであるが,北から直線で降りてきた下ツ道が丸山古墳を避けるようなかたちで,西に寄っているのがわかる。街道自体はこれから南に進むが,直線部はここで終わるため,下ツ道の起点は見瀬丸山古墳とされ,これが定説となっている。

丸山古墳看板

江戸時代の丸山古墳絵図

[聖蹟図志,1854]

図1 下ツ道と見瀬丸山古墳

[国土地理院・米軍写真より]


2.下ツ道につながる可能性のある飛鳥横道(仮称)の発見

 下ツ道の敷設理由が不明な原因は,下ツ道につながる宮がはっきりしないためもある。図2は丸山古墳周辺の古道と宮を含めた航空写真である。現在は@の地点で下ツ道の直線部は終端していると考えられている。
 この図から分かるように,もし,軽衢(かるのちまた)で終わっていれば,小墾田宮との関係が深く,推古朝での敷設が有力となる。またAの地点まで直線部が続いていれば,飛鳥宮との関係が深く,斉明朝での敷設が有力となる。現在は@のため中途半端な状態で,理由が不明となっている。
 しかし,最近川原下ノ茶屋遺跡において飛鳥宮から続くと思われる約800m,道幅10mの直線の東西古道(仮称:飛鳥横路)が発見された。これにより,この写真のように,Aの地点でこの古道が下ツ道に接続する可能性が高くなった。
 同時に,下ツ道もAまで直線道であった可能性も出てきたことになる。以下その可能性を検討する。

 この写真でもこの道は飛鳥に入るメインの道路だったことが分かるが,これまで古代史の世界では重要視されてこなかった。その理由の一つが「下ツ道は見瀬円山古墳が起点」という定説だろう。
 なお,あの亀石もこの飛鳥横路の脇に置かれていた。

 

図2 上ツ道周辺の古道と宮

[国土地理院・米軍写真より]


3.下ツ道は見瀬丸山古墳を迂回していなかった

 図1の写真では,いかにも下ツ道が丸山古墳を迂回しているように見えるが,丸山古墳は岸俊男の記述にもあるように,図3(本体と周濠及び周庭帯(一定幅の外域))のような構造であり,仁徳天皇陵古墳のように,古墳本体の周囲は水を満した濠で囲まれていた。したがって,現状の道でも古墳を迂回することなく,北西部の周濠部及び周庭帯を破壊して通過しているのがわかる。さらによく見れば,本体部分の北西部も欠けていて,そこに住宅が建っていることがわかる。この道を通すためには,周濠を埋める必要もあり,古墳も大きいのでかなりの大規模工事である。したがって,図4のように,下ツ道がまっすぐ敷設されていた可能性がでてくる。

図4 下ツ道と見瀬丸山古墳

[国土地理院・米軍写真より]

 

図3 下ツ道(Aまで)と見瀬丸山古墳

[国土地理院・米軍写真より]


4.下ツ道が丸山古墳を迂回していない証拠

 図5は現代の地図に想定される下ツ道を描いたものである。中心線(黄色)は平城京の朱雀門の中心と札の辻の交差点を延長した線(方位:24分21秒西偏)。側溝中心間の道幅は23m,東側溝幅を4m,西側溝幅を4mで計算した。現代の国道が古墳の北西部を大きく削ったために,気づきにくいが,図6を見ると,図4の写真で本体の削られている部分は,想定される下ツ道の東端とほぼ一致していることが分かる。従って,丸山古墳の本体の北西部を削ったのは下ツ道の敷設時と推定される。

図6 下ツ道と見瀬丸山古墳(削減部分の拡大)

[Google Earth Proより]

 

図5 下ツ道(Aまで)と見瀬丸山古墳

[Google Earth Proより]


5.詳細地形図(30cmメッシュ)での確認

  図7は「第3章 橿原円山古墳測量調査」京都橘大学 文化財調査報告書 (2012)p.9の図7から引用した図面に,想定される中ツ道の経路の概略を加筆したものである。これにより,下ツ道の想定経路に並行に古墳が削られていることが分かる。したがって,本来の下ツ道は現在街の中心を走る道の東側下層にある可能性が高い。

 以下の戦後直後の地図を見ても北西部は南北方向に削減されていることがわかる。また,現在は平地に造成され家が建てられいるのでよくわからないが,図14を見ると,高低差のある崖だったことがわかる。

図14 丸山古墳図

[奈良国立文化財研究所
軽池北遺跡発掘調査報告 (1977)p.5 第3図に加筆]

 

 

図7 詳細地形図(30cmメッシュ)

[京都橘大学 文化財調査報告書 (2012)p.9の高低図に加筆]

6.測量起点はどこか

 図8は下ツ道経路上の標高である。@とAの地点はほぼ同じ標高であり,Aをすぎて400m程度は平地が続く。その後標高差20m程度の丘が現れる。標高差20mの見通し距離は約17kmであるが,平城京方向はさらに標高が下がるので見通し距離としては問題ない。したがって,この丘を起点として下ツ道の測量をおこなったことになる。

図8 下ツ道終端付近の標高図

[Google Earth Proによる]

7.まとめ

 定説「上ツ道は見瀬円山古墳が起点である」を検証したが,下ツ道は見瀬円山古墳を削り,飛鳥京の入り口まで直線で敷設されていた可能性が高いことが判明した。そこからは,飛鳥横路により飛鳥宮まで続いていたことになる。
 これにより,難波大道が難波宮から延びていたように,下ツ道は飛鳥宮から延びていた,飛鳥宮を支える大道ということになる。この道は各国の使者を迎える大路でもあった。下ツ道が丸山古墳で止まっていれば,使者は飛鳥宮には軽の衢で東におれて山田道を通り飛鳥宮の裏道を抜けて飛鳥宮に入ることになる。したがって,下ツ道の起点を丸山古墳とする説自体が不自然だった。下ツ道は飛鳥宮にとってもっとも重要で実用的な大道であった。そう考えると,飛鳥宮の大路は西向きの飛鳥横路であり,後のエビノコ郭が西向きに門があるのも当然である。このことに気が付かなかったことも,下ツ道を丸山古墳で止めていたことによる弊害である。下ツ道が敷設されたのは斉明天皇(655〜661)の時代が最有力となる。

図9 飛鳥の古道と飛鳥宮

   なお,飛鳥横路は飛鳥浄御原宮のエビノコ郭西門に接続されているとする説明もあるが,エビノコ郭西側中央にある西門とは下図のように20m程度北にずれている。飛鳥横路は飛鳥宮の南庭に接続していたことになる。

図10 飛鳥横路と飛鳥宮

[地図はGoogle Earth Proによる]

 

8.岸俊男著「大和の古道」記述の検証

 岸俊男の下ツ道南部の具体的記述は以下の3点がある。@とAの記述からは,下ツ道は丸山古墳を完全に避けて迂回しているとも考えられる。しかし,Bでは下ツ道を現在も残る近世の中街道(古墳の西を通る道)ととられている。岸俊男著「飛鳥と方格地割」(1970)p.21第2図から丸山古墳の周りを図10に切り出した。この図では丸山古墳の周庭部に沿って道があったと考えたとも思えるが,そうであれば,南側の道が現在の鉄道線路のように北西部の頂点に向かわず,わざわざ北に向かい古墳に当たる道を通るのも不自然である。結局,この図は下ツ道の起点が丸山古墳の底辺中央であることを示すのが目的のようである。
 下ツ道敷設時に周濠を迂回したのであれば,中世の時代に周濠を埋めたことになる。その時の道筋が現代に残る道と同じであれば,古墳本体の北西部を削る理由が無い。

【参考】岸俊男著「大和の古道」(『日本古代宮都の研究』(1988)に収録)での,下ツ道南端の記述部分。
@p.31 (初出『日本古代文化論攷』(1970)) 『したがって下ツ道は,すでに指摘されているように,平城京朱雀大路を南に延長したいわゆる中街道がそれに当たり,稗田から二階堂・田原本・八木の集落を連ねて畝傍山の東を大軽をへて,見瀬円山古墳をかすめて南進する。
Ap.74 (初出『日本古代文化論攷』(1970)) 『従って早く北浦定政が指摘したように,下ツ道は平城京朱雀大路として利用されたが,さらにその南への延長部分は近世の中街道となって,二階堂・田原本などの集落をへ,八木で横大路と交叉し,さらに畝傍山の東を大軽に至り,見瀬丸山古墳の旧周濠を西に迂回して南進する』。
Bp.102-103[付論 見瀬丸山古墳と下ツ道](初出『青陵』16号(1970))  『しかしここで丸山古墳についての注目すべき問題を提起しておこう。それはこの古墳の中軸線は西北方向を向いているが,その中軸線と周濠外縁,あるいは周庭帯との交点がほぼ下ツ道の延長線と一致すること,換言すれば下ツ道はこの古墳の正面中央を起点とし,そこから北に直進するように計画されたのではなかろかということである。前方部における周濠の外縁線が現在では明確にできず,完全な復元が困難なので,なお重要な点で問題を残しており,古墳と古道の前後関係については慎重な検討を要するが,次の事実も併せ考える必要があろう。すなわち現在の国道一六九号線は丈六の交点(藤原京の南限・軽の街はこの付近)より約四00メートル南までは下ツ道をそのまま利用して直進するが,その三叉路から南は新しい道となり,古墳前方部の一部を通って南下している。下ツ道(むしろ近世の中街道と称した方がよかろう)も,そこから南は墳丘を避けるためにやや西に寄っているが,古墳以南ではもはや直線コースをとらず屈曲しながら南に向かっている。』

 

図11 岸俊男著「飛鳥と方格地割」(1970)p.21第2図より

9.見瀬丸山古墳の周濠の検証

 見瀬丸山古墳の周濠と想定下ツ道の標高を記入したのが図12である。これを見ると,周濠の標高の方が街を通る想定下ツ道の標高より高いのがわかる。また,@の部分は標高差約5mの崖になっている。したがって,周濠はここで途切れていることになる。周濠が確実に存在すると思われる左下の部分でも標高は84.2mであり,下ツ道が通る街の標高より高い。したがって,周濠を巡らすためには,少なくとも3〜4mの堤を造る必要があるが,その痕跡はない。もともと,古墳造営時に街の部分には周濠を巡らしていなかった可能性が高いのではないかと思われる。
 いずれにせよ,見瀬丸山古墳は自然の小山を利用した古墳なので,下ツ道敷設時には以下のような周濠になっていたと思われる。

図13 丸山古墳の標高(国土地理院)

[京都橘大学 文化財調査報告書 (2012)p.7の高低図に加筆]

 カシミールの3D画像でも,街と古墳の間にはっきりとした段差(崖)があることが分かる。

図15 丸山古墳周辺の画像(カシミール3D)

図12 丸山古墳の標高(国土地理院)

[京都橘大学 文化財調査報告書 (2012)p.9の高低図に加筆]



2021/07/31 項目4を修正。
2021/06/21 図14と図15を追加。
2021/06/19 図13を追加。
2021/06/18 項目9を追加。
2021/06/15 図9を追加。項目7を修正。
2021/06/06 項目8を追記。
2021/06/04 看板,江戸時代図追加。図3,4周庭帯追加。
2021/06/03 UP
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