中国古代の「北極」は星座名である

- 孔子の見た北辰は北極星 ー



1.はじめに

 日本での古代中国の北極星の同定の誤りは「北極」の誤訳に起因する。現代の日本で天の「北極」というと「天の北極点」およびその付近を意味する。しかし、古代中国では「北極」は星座名の一つである。図1の五星からなる星座が「北極」である。したがって、中国古代の文書に「北極星」とあった場合には、「星座北極の星(々)」という意味であり、いわゆる現代日本で云うところの「北極星」ではない。図1でいわゆる北極星は天極付近にある第5星で、「北辰」,「極星」,「紐星」や「枢星」と呼ばれた。第1星が「帝星」とよばれる星である。なお天の北極点については古代中国では「天極」とよばれている。

 星座北極の星々は、『史記天官書』や『漢書天文志』では「天極星」(天極の星々)とよばれ、晉書で「北極五星」とよばれているので、これらの星が星座「北極」と呼ばれるようになったのは後漢の時代以降と考えられる。大崎正次「中国の星座の歴史」(1987)p.215も『現存する文献の上では、両者(「天枢」の星名と「北極」の星座名)とも『開元占経』巻67(石氏中官)に初出し、天官書にその名がみえぬことは、前漢時代よりも後代ということになる。』とする。

図1 星座北極付近の星図(AD200年)

2.晉書天文志での星座北極の記述

 晉書天文志には星座北極五星について以下の記述があるが、ほぼ全てが第5星(いわゆる北極星)についての説明である。

    『北極五星,鉤陳六星,皆在紫宮中。北極,北辰最尊者也,其紐星天之樞也。天運無窮,三光迭耀,而極星不移,故曰「居其所而衆星共之」。』晋書天文志[歴代天文律暦等志彙編・第一冊] p.175

 強調文字にしているように第5星は先にあげたようないろいろな呼び方がされている。【注1】

 世界の名著・続1「中国の科学・晉書天文志」(1975)p.242では上記本文の『北極,北辰最尊者也』を「北極は北辰のなかでもっとも尊い星である」と訳し、「北辰」を北の星と解して訳しているようである。しかし、これでは論語の引用で「北辰」を省いている理由がなくなり、意味も通じない。この文章は『星座北極は五星、(中略)。星座北極の北辰は最も尊い星である。その(北辰である)紐星は天の枢なり。(中略)しかし、(北辰である)極星は動かず。ゆえに、(論語に)曰く「(北辰)居其所而衆星共之」』((北辰)其の所に居て、 衆星之に共(む)かふが如し。)と訳すべきである。

 この文では「北辰である極星」は不動であるので論語(孔子)で「居其所而衆星共之」と云うとあり、論語の云うところの北辰が不動の極星であると明記している。論語からの引用文に北辰を省いていることにより第5星の極星が北辰であることを前提に記述されている。これらの記述は古代の中国天文家の普遍の考え方である。

 したがってこの時代のいわゆる「北極星」は星座北極の帝星(第1星)では無く第5星の極星である。この北極星は『格子月進図』の同定ですでに同定しているようにHR4852(6.4等)である。これによっても古代の北極星は「天極に近い星」のみが条件であることがわかる。
 


【注1】 福島久雄「孔子の見た星空」(1997)の誤訳にもとづく誤解
 福島久雄「孔子の見た星空」(1997)p.34注2では、この晉書天文志の第五星の「天之枢」を星名ではないとし、他の文献でも「極星」を「天枢」と呼んだ例を見ないとするが、右の有名な『唐歩天歌』にもあるように、北極五星の第五星は「天枢」、別名「天之枢」と普通に呼ばれている。福島久雄「孔子の見た星空」(1997)p.122-125では『歩天歌』の参宿(オリオン座)を取りあげており、当然認識しているはずである。

 この「天之枢」が星では無いと主張する背景は、同p.8で朱子『論語集注』の『北辰,北極,天之樞也』を「北辰は北極(天極の意味)、天の枢なり」と訳し、北辰は星ではないとしているためである。さらに朱子は「北辰が北極なり」が後世に「北辰が北極星なり」と解されるとは夢にも思っていなかったであろうとしている。しかし実際には、北極は星座名なので『論語集注』の訳は「北辰は星座北極の星天之樞なり」である。朱子が驚いているのは北辰を自分が説いた北極星ではなく北極(天極)とされたことである。また、同p.10-11では自説をもとに、「北辰を北極星」とする日本の注釈書や「大漢和辞典」などを批判しているが、誤読にもとづき批判されたのではいい迷惑である。理系の先生ということで無視したのだろう。

 また同じ注2で晉書天文志の文頭の「北極五星」を省略し「北極,北辰最尊者也」を、「北極は北辰、最も尊い者なり・・・」と訳し、「北極」を「天極」と思わせ、それが北辰であると解釈させている。しかし、ここでの北極は明らかに文頭の「北極五星」の星座である北極なので、恣意的な誤った解釈である。「(星座)北極は北辰、最も尊い者なり・・・」はありえない訳であると知りながら書いたことになる。

唐・歩天歌の記述
(四庫全書・玉海)

 さらに、同p.7の『文選』の李善(唐の学者)注から「鄭玄曰北極謂之北辰。」を「鄭玄曰く、北極之を北辰と謂う。」と訳して、鄭玄は北辰を正北極(天の北極)としていることが分かるとしている。しかし、この北極も天極ではなく、星座北極である。訳としては「鄭玄曰く、(星座)北極(の星)いわゆるこれ北辰である。」ということになる。実際、鄭玄の『(周禮)考工記』の注には「極星謂北辰。」(極星はいわゆる北辰である)とあり、後の唐代の『文選』の李善の引用で鄭玄の注が極星から、極星の属する(星座)北極に変化してしまっているだけである。

 同p.10では「中国では『論語』の「北辰」を北極星であるとする注釈は見えない」とするが、上記のように中国天文の最高権威である史書・天文志にも「極星(北極星)は動かないので、論語で動かない北辰とされている」とある。しかし、この部分も同p.34注2の訳では省いている。

 福島久雄「孔子の見た星空」(1997)は孔子の云う北辰は天極であるとし、北極星とするのは日本特有主張しているが、晉書天文志の記述や朱子や鄭玄の注釈を正しく解釈すればその主張は明確に否定される。これらの文献により中国でも古代より少なくとも宋代まで孔子の説く北辰は不動の極星(北極星)と理解されていたことが確認できる。中国古代に北辰を極星とよぶ例は少し探せばすぐに出てくる。福島久雄「孔子の見た星空」(1997)は星座「北極」を天極と誤って解釈しているだけである。

 例えば、北宋の学者・沈括(1031~1095)の引退後の回顧談である『夢渓筆談』(127条)には『漢以前皆以北辰居天中,故謂之極星』(漢以前は誰もが北辰は天の中央に居ると思っていたので、北辰を極星と呼んだ)とある。また沈括は渾天儀の天極に向けた覗管に極星(HR4893)を巡らせることで天極との角度を測り、約3度(管の直径)であったとしている。したがって、宋代でも北辰は極星である。

 たぶん福島久雄「孔子の見た星空」(1997)の誤解は、「(星座)北極」を現代で云うところの「北極」、すなわち「天極」と単純に理解してしまったところに起因すると思われる。20年余りもこの誤りは無視、若しくは見過ごされていたことになる。

 福島久雄「孔子の見た星空」(1997)により「『論語』の「北辰」は日本では、長い間北極星だと誤って考えられていた。」というような誤った情報が一部に根付いてしまっているがこれは間違いである。古代から中世の中国においても『論語』の「北辰」は北極星と考えられていた。

 また「孔子の云う北辰が星である」という考え方をした後代の人々は歳差を知らなかったからという誤った認識をしているものもある。これは少し考えれば分かることであるが、後代の人が、「今は天極には星は無いが、孔子の時代には天極に極星があった」と考えることは、星は時代により移っていることを認識していたからである。すなわち歳差を認識していたから、「孔子の時代には天極に星があった」と考えられるわけである。戦国諸家の説を集めた百科全書といわれる『呂氏春秋』には「極星與天俱游,而天極不移」(極星は天とともに動いて、北極点は動かず)とあり、もともと(孔子の時代には)天極にあった極星が今(戦国時代)は周極星となり動いていることを認識している。

 



2020/06/20 追記
2020/03/01 修正
2020/02/29 UP
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