「孔子の見た北辰は天の北極」に根拠は無い



1.はじめに

 論語には『子曰、為政以徳。譬如北辰居其所、而衆星共之。』【為政第二】(政(まつりごと)を為すに徳を以ってす。譬(たと)へば北辰の其の所に居て、衆星の之に共(むか)ふが如し)とある。
 この文にある北辰は北極星とほとんどの論語の解釈書で訳されている。しかし、福島久雄『孔子の見た星空』(1997)p.1は、孔子の時代の星空を市販ソフト(ステラナビゲータ)で再現し、孔子の時代には、北極付近には顕著な星はなく、歳差運動により『孔子の見た北天には「北極星」と呼ぶような星はなかったのである。』とした。すなわち、孔子の見た北辰は北極(天の北極点、天極)と解釈した。しかし、以下説明するようにこの説に根拠は無い。

2.この解釈に対する賛否

 この説は検証なしに支持され、水上静夫『漢字を語る』(1999)p.94は、『もちろん、早速反論も出た。しかも中国では錚々(そうそう)たる大学者の見解などを引き論駁(ろんぱく)している。しかし、争点の審判者は学者や論説ではなく科学である。天文学・天文現象という、科学の問題であり、「歳差現象」によって軍配は挙げられたのである。』とする。

 最近では北條芳隆『古墳の方位と太陽』(2017)p.75-76で『夜の星空もまた歳差現象のもと 26,000 年周期をもって変動中であり、地上から北の空をみつめても、不動の「北極星」など存在しなかったからである。とはいえ天文学界では常識であっても、それが人文科学に定着するには時間がかかり、歴史学にも深刻な影響があることへの認識が広まるきっかけとなったのは、おそらく福島久雄(物理学・北海道大学)の著作ではないかと思われる。『孔子の見た星空』との表題どおり、福島は古代中国における星空の時代別変遷を再現し、孔子のいう北辰とは特定の星を指したものではなく、ましてや現在の「北極星」ではありえないことを具体的に論証した。』とする。

 このように、両者ともに「歳差現象」により科学的に孔子の見た北辰は北極星ではないことを論証したとしている。また、月刊星ナビ2011年8月号p.84-85『金井三男のこだわり天文夜話(127話)』では「北極星は日本製!?」と題して『孔子の見た星空』の主張をそのまま紹介している。たとえば『古代中国でも、北極星という具体的な星名はなかった。有名な孔子の『論語』にでてくる北辰も、北極星のことではなく、単に天の北極の意味しかないという。当時(紀元前500年頃)天の北極には、北極星が無かったことになると考えられる。』とし、天文マニアにもこの考え方はマメ知識として広まったと考えられる。

  これに対し『孔子の見た星空』への反論は少ないが、種村和史『孔子が見た『北辰』は『星無き処』だったのか?─『孔子の見た星空』』[東方 ( 205 ) 16-19 1998年03月]が様々な文献の事例を示したうえで次のような的確な反論をしている。『『論語』の北辰を天の北極すなわち「星無き処jと解釈しなければならない積極的な理由は、文献の記載に基づく限り見られない。他に適当な星が無い限り、唐宋では見えるか見えないかの星(キリン座のΣ1694、5.28等)を「極星」としていた(p.10)というように、孔子の当時の北天も五~六等星程度の星まで視野に入れて候補を探すか、相対的に天の北極に近い太一星=帝星、すなわちこぐま座のβ星を、古代の人々は「北辰」つまり「北極星」と呼び、実生活にまた文学的比喩に用いていたと考えるべきと思う。』とする。また『今後さまざまな角度から議論がのぞまれる』としているが、検索する限りではその後議論は見られない。水上静夫『漢字を語る』(1999)p.94が反論とするのはこれと思われる。

3.『孔子の見た星空』の論証方法

『孔子の見た星空』ではつぎのような論法で、『論語』の北辰を北極星では無いとした。

    (1) 孔子の時代(BC500年頃)の星空の北極には歳差により星が無かったことを星図を示し証明。(p.1-6)
    (2)『論語』の古注(鄭玄、何晏)や新注(朱子)も北辰を天の北極点とすると例示。(p7-10)
    (3) 清代の学者の「北辰は是れ星無き処」の例示。(p.10)
    (4) (2)(3)により中国では『論語』の北辰を北極星とする注釈は見えないと結論。(p.10)
    (5) (2)~(4)により日本の辞書等では根拠なく「北辰」を「北極星」としていると主張。(p.10-12)
      また、それらが「朱子が全く説いていない説を根拠としている」と述べているとする。
    (6)『「北極星」は日本の造語か』として、逆に中国には北極星は無かったと主張。(p.13-15)

これらにより、「『論語』の北辰は北極星では無い」と論証されたとされている。

4.『孔子の見た星空』の問題点

『孔子の見た星空』は単行本なので、論文のような査読を受けていない。したがって、孔子の北辰を解釈する上で問題点多くある。下記は上記番号に対応する。

    (1) 『孔子の見た星空』は星図を(唐宋の北極星を表示する図を除き)5等星以上で描いている。
     すなわち、著者には北極星は顕著な(明るい)星という思い込みがある。しかし唐宋の北極星が5.28等星なので、中国古代の北極星に明るいという条件は無い。『孔子の見た星空』が科学的に論証したのは、孔子の時代の天の北極点に5等星より明るい星がなかったことだけである。そもそも、図1の能田忠亮「東洋天文学史論叢」(1943,1989復刻)p.104図8が示すように、右樞(α Draconis)から唐宋の北極星である天樞(きりん座∑1694,HR4893)までの天の北極点の経路に∑1694(5.28等星)より明るい星が無いことは、わざわざ市販ソフトで示さなくても昔から明らかである。種村和史の指摘のように、孔子の時代に肉眼で見える星(5~6等星)が無いことを示さないと科学的に論証したことにならない。
     古代では空が暗いので、暗い星までよくみえたのである。中国星座を構成する星約1460個の内5.0等星より明るい星は約800個(55%)しかない。したがって光度を5.0等までに絞った星図では中国星座は描けず、そのような星図で中国の星の話をすること自体が中国の星座を知らないことを示している。『孔子の見た星空』の5等星までの星図が問題ないように見えているのは描いている星座が西洋の星座だからである。西洋の星座のもとになっているアルマゲストの星表には暗い星を含めて1028個の星しかない。
     
      図1 帝星同定時の星図

      (「東洋天文学史論叢」p.104より)

    (2) 古代中国に「北極」という星座があったことを知らなで解釈している。
       晋書天文志に『北極五星,鉤陳六星,皆在紫宮中。北極,北辰最尊者也,其紐星,天之樞也。天運無窮,三光迭耀,而極星不移,故曰「居其所而衆星共之」。』(星座・北極は五星、星座・鉤陳は六星、皆紫(微)宮の中にあり。星座・北極の北辰は最も尊い星である。その紐星は天の枢(星)である。(中略)しかし、(北辰である)極星は動かず。ゆえに、(論語に)曰く「(北辰)居其所而衆星共之」)とある。すなわち、晋書天文志は、5星からなる星座・北極があり、そのひとつの星が北辰、紐星、天之樞(星)、極星といろいろな名前で呼ばれ、さらに、極星は動かないので論語で北辰とよばれているとする。

      1)鄭玄『鄭玄曰北極謂之北辰。』
      この『文選』の李善(唐の学者)注から「鄭玄曰く、北極之を北辰と謂(い)う。」と訳し、この北極を正北極(天の北極)としているが、この時代の天の北極を示す語は「天極」である。ここでいう北極は「星座・北極」でありその第5星が極星である。鄭玄(後漢末期の学者)はこれよりはるかに古い『(周禮)考工記』の注では『極星謂北辰。』(極星とは北辰のことをいう) とする。したがって、北辰は星座・北極に属する極星である。この時代の北極に天の北極点(天極)の意味はない。
      2)魏・何晏『徳者無為,猶北辰之不移而衆星共之。』『論語集註』

      これを引用して、「北辰の移らず」として、北辰を星と言っていないとする。しかし、何晏は北辰は動かないとするだけで、星で無いとは言っていない。実際、魏の時代の北極星(HR4852)は天極のそばにありほとんど動いていなかった。上記のように晋書天文志にも、極星は動かないので、論語の文の北辰を抜いて説明している。すなわち、この時代も「極星=北辰」と認識されていた。
      3)朱子『北辰、北極天之樞也。居其所不動也。』『論語集註』

      これを「北辰は北極、天の枢なり。其の所に居りて、動かざるなり」と訳し、「北辰は北極(天極)なり」とする。しかし、ここでいう北極も星座・北極であり、正しく訳せば「北辰は星座・北極の天之枢(星)である。その所に居りて動かず」となる。福島久雄(1997)p.8は「朱子は「北辰は北極なり」が、「後世に北辰とは北極星なり」と解されるとは夢にも思っていなかっただろう。」とするがまったく逆である。朱子の注は上記晋書天文志の記述にもとづいていると思われる。

    (3) 清代の学者は歳差付星表の整備により孔子の時代の星空の計算ができるようになったが、清の時代の
      星表には限られた数の星(約3千)しか記載されていなかった
    。清の学者の主張はこの少ない星数の
      星表に基づく計算よるものである。また、清の時代には宣教師により古代に北極星を持たなかった
      西洋系の天文学に移行しており、その情報は古代中国の北極星を推定する上でも重要性はない。
    (4) 『孔子の見た星空』は古代中国では「北極星」は「極星」と呼ばれていたことを明示していない。
      北辰を極星とする記事は上記(2)以外にもいくつもある。
    (5) 以上により「北辰」を「北極星」では無いとする根拠はない。日本の注釈書が「北辰」を「北極星」と
      するのも妥当。朱子も(2)の3)のように北辰を星座・北極の天の枢星(極星,北極星)とする。
    (6) 中国では北極星は極星と呼ばれていたので、「北極星」が日本の造語かどうかは、孔子の北辰が
      いわゆる北極星(極星)では無いという根拠にはならない
    。関係の無い話である。

5.まとめ

 以上のように『孔子の見た星空』は一見、天文学及び中国古典の面から論証されているようにみえるが、両方の面から「孔子の見た北辰は天の北極」に根拠がないことは明らかである。『孔子の見た星空』p.10は「中国では『論語』の「北辰」を北極星であるとする注釈は見えない」とするが、逆に孔子の見た北辰は古代から極星(北極星)と考えられていたことが上記検証だけでも明らかである。また、これら孔子より後代の記述を無理に反対に解釈したところで、孔子の時代に北極星がなかった根拠にはならない。

 一部に、福島久雄「孔子の見た星空」(1997)により「『論語』の「北辰」は日本では、長い間北極星だと誤って考えられていた。」というような誤った情報が根付いてしまっているがこれは間違いである。古代から中世の中国においても『論語』の「北辰」は北極星(極星)と考えられていた。『論語』の日本語訳版にも北辰は星ではなく天極とする訳が出てきているが、同様に根拠は無く単純に誤りである。鄭玄が『(周禮)考工記』の注ではっきりと『極星謂北辰』と言っている。

 



2020/08/02 UP
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