12. 漏刻臺と占星臺を考える(占星臺は漏刻臺)



 ここでは「漏刻臺」と「占星臺」を考える。表1に「漏刻臺」や「占星臺」に関係する記録をまとめた。
 「臺」の字は現代では当用漢字の「台」が当てられるが、史書の記述は全て「臺」である。


表1 「漏刻臺」/「占星臺」関連の歴史記録
No.史料記述内容
1大化3年(647)是歳 壊小郡而営宮。天皇処小郡宮、而定礼法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外、左右羅列。候日初出。就庭再拝。乃侍于庁。若晩参者。不得入侍。臨到午時、聴鍾而罷。其撃鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。【日本書紀】 役人の出退時刻を決めその管理のために「退庁の時刻を知らせる鐘臺(楼)を中庭に建てよ」としている。なお登庁は寅の刻に門外に待ち、日の出で出仕する。退庁は正午なのでこの時期は日時計を使っていたことが分かる。
2白雉4年(653)7月被遣大唐使人高田根麻呂等(第2回遣唐使) (帰国654年7月)
3白雉5年(654)2月遣大唐押使大錦上高向史玄理(第3回遣唐使) (帰国655年)
4斉明天皇2年(656) 後飛鳥岡本宮遷都 
5斉明天皇6年(660)5月有皇太子初造漏剋。使民知時。【日本書紀】 (遷都から4年後)
天智天皇が太子のときに漏刻をつくり民に時刻を知らせた。
6天智天皇2年(663)8月白村江の戦い
7天智天皇6年(667)3月近江大津京遷都
8天智天皇7年(668)7月於浜之下諸魚覆水而至【日本書紀】 浜臺(浜の御殿)の下に魚がたくさん集まったという記事。『藤氏家伝』では「浜臺」は「浜楼」としており、『日本書紀』では「楼」を「臺」と呼んでいることが分かる。
9天智天皇10年(671)4月(25)置漏剋於新臺。始打候時。動鍾鼓。始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時、始親所製造也。云々。【日本書紀】 (遷都から4年後)
 漏刻が新臺に置かれ始動した。天智天皇が太子のころ作った漏刻としているので、遷都にともない、鐘楼が新築され、漏刻が飛鳥から移設されたと考えられる。
 なお訳本では「動鍾鼓」を「鍾鼓をとどろかす」としているが、漢字の「動」には「とどろかす」という意味はない。これは江戸時代の河村親子の『書紀集解』の踏襲。
 この日はユリウス暦では671年6月7日であるが、なぜか16世紀に制定されたグレコリオ暦での671年6月10日が採用され、6月10日が「時の記念日」となっている。
10天武1年(672)6〜7月壬申の乱
11天武1年(672)冬 飛鳥浄御原宮遷都
12天武天皇4年(675)正月朔(1)大学寮諸学生。陰陽寮。外薬寮。及舎衛女。堕羅女。百済王善光。新羅仕丁等。捧薬及珍異等物進。【日本書紀】 この記事が「陰陽寮」の初出でこれををもとに陰陽寮は天武天皇が作ったことになっているが、この記事は「元日に陰陽寮などが珍しい物を天皇に奉った。」というだけの記事。逆にこの記事から陰陽寮(若しくはそれに類する部署)はこれ以前に存在していたことが分かる。当然、陰陽寮の漏刻を管理する部署は斉明天皇6年(660年)の漏刻の運用開始時からあった。
13天武天皇4年(675)正月(5)始興占星。【日本書紀】 (遷都から2年後)
 「占星臺」と呼ばれる「楼」が初めて建てられた記事。しかし「漏刻臺」と同じ陰陽寮の管理下なので機能的(天体観測の楼)には「漏刻臺」との違いは無い。
14
長徳元年(995)7月(4) 【推定】
 時司などはただかたはらにて、鼓の音も例のには似ずぞ聞こゆるを、ゆかしがりて、若き人々二十人ばかり、そなたに行きて、階より高き屋に登りたるを、これより見上ぐれば、ある限り薄鈍色の裳、唐衣、同じ色のひとえがさね、紅の袴を着て登りたるは、いと天女などこそえ言ふまじけれど、空よりおりたるにやと見ゆる。同じ若きなれど、おしあげたる人はえまじらで、うらやましげに見上げたるも、いとをかし。【枕草子 156段】(角川ソフィア文庫)   時司は陰陽寮で漏刻を管理し時刻を知らせる役所。
 女房約20人が陰陽寮の鐘楼に向かい、そのうち十数人が鐘楼の屋上に登り、それを清少納言が隣の屋敷から見上げている様子を書いたもの。この記述から鐘楼の屋上は露天であまり高くない2〜3階ぐらいの高さであり、鐘鼓などの機材があっても十数人が立って居られるような広さがあったことが想像できる。水落遺跡は4間(10.95m)四方[文献1]で高さは9m程度[文献4]とされているので、同等の大きさとも考えられる。また登るのを助けた人も清少納言から見えているので屋上へは外階段がついていてそれを登ったようである。これは漏刻が設置されている室内への温度変化を少なくするためかもしれない。
15大治2年(1127)2月(14)焼亡之興、火起醤司小屋、焼陰陽寮、(中略) 陰陽寮鐘楼皆焼損、但於渾天図漏刻等具者今取出也、往代之器物此時滅亡、尤為大歎者、抑陰陽寮鐘楼、昔桓武天皇遷都被作渡也、其後今逢火災、至今年三百三十七年、今日焼了(以下略)【中右記】  陰陽寮の鐘楼が火事で焼失した記事。
 記事によりこの陰陽寮の鐘楼は平安遷都時(794年)に建てられたもので、鐘楼の中には漏刻の他に渾天図(天球儀)のような天文設備も設置されていたことが分かる。


漏刻臺と占星臺を考える(占星臺は漏刻臺)

1.「臺」とは何か?

     現代の出版物では漏刻臺や占星臺は漏刻台や占星台と当用漢字を使って書かれているが、日本書紀の原本には「臺」の字体で書かれている。「臺」を漢字辞典(全訳 漢字海 第2版 三省堂)で調べると、最初に『四方を見晴らすための高くて平らな建造物。ものみ。うてな。「楼台」』とある。表1の8番の記事から「日本書紀」では「楼」に「臺」をあてている事がわかるので、辞書の解釈と同じことになる。

2.「臺」には何が置かれたか?

    1番の記事(漏刻がない時代)では、退庁の時(正午)を知らせる鐘がおかれた。この時は日時計で正午を決めていたと思われる。
    9番の記事では漏刻が新しく作られた楼に置かれたことがわる。これは近江大津京遷都に伴うものと考えられる。このときは漏刻の時刻で時報が鳴らされていた。
    13番の記事では占星のための楼が建てられたことがわかる。楼に天文観測設備が置かれたことも推測できる。
     この時も飛鳥への遷都から2年めですが、漏刻についての記述はありません。
    14番の記事からは、陰陽寮の時司に10数人が載れる露天屋上形式の鐘楼があったことがわかる。
    15番の記事からは、その陰陽寮の鐘楼には漏刻の他に渾天図(天球儀)のような天文設備が置かれていたこがわかる。

    では15番の記事のように鐘楼に天文設備がいつの時点から置かれていたかが問題ですが、漏刻に時刻校正用の天文設備は必須なので、天智天皇が皇太子時代に作った「漏刻臺」(水落遺跡)の時点でこの形態になっていたと考えるのが自然だと考えられる。それが遷都のたびに漏刻や天文設備は同じものが引き継がれ、「臺」は移築もしくは新築された。従って天武天皇の「占星臺」は機能的には「漏刻臺」と同じだったことが考えられる。

3.「占星臺」が「漏刻臺」である理由

    1. 壬申の乱終結から「占星臺」を興すまで2年しかないので、新規に天文設備を整えたとすると、唐から新しく輸入する時間が無い。
      また、天武朝は唐と距離をおいてもいる。
      天文設備は製作期間だけでも1年はかかると考えられる。従って既存の天文設備を大津京から移動しただけと考える。
    2. 陰陽寮の敷地内に「占星臺」と「漏刻臺」の2つの楼を建てる必要性がない。
    3. 陰陽寮の敷地外(府外)に「占星臺」を建てる必要性がない。記事14からも付近の平屋より高ければよいことが類推できる。
      水落遺跡でも甘樫の丘等で視界を塞がれるのは地平線から10°程度。[文献6] 古代に地平線付近の観測にこだわる必要性はない。
    4. 12番の記事から推定できるように、陰陽寮に類する組織は天智天皇時代から存在していた。
      この記事より定説の「天文は天武天皇から」にこだわる理由はない。
    5. 「漏刻臺」は大津宮から移築されているはずなのにその記事が天武紀にない。
    6. 例えば水落遺跡の「漏刻臺」も真北に天の香具山の山頂があり、漏刻自体とは直接関係ない子午線を意識して建設されていた。[文献6]

4.漏刻と天文設備はいつどこから輸入されたか?

    1. 天候に左右されない正確な時計の必要性が意識され始めたのは1番の記事(647年)と考えられる。
    2. 漏刻と天文設備を製造できるのは唐しかない。
    3. 663年の白村江の戦いを考えると660年前後以降の輸入は難しい。
    4. 以上の条件を考慮すると漏刻と天文設備が輸入されたのは、653年若しくは654年の遣唐使ということになる。
      653年の遣唐使で発注し、654年の遣唐使が受け取ったということも考えられる。
    5. 日本側は漏刻の輸入しか考えていなかったが、漏刻を設置する中国人技術者に、
      漏刻の校正のために天文設備の購入も要求されたと考える。

結論

     以上の内容により、占星臺と漏刻臺が機能的に違う理由は無いので、占星臺は漏刻臺の呼び方をかえただけの同一建造物と考えられる。
     天武天皇の特殊性を際立たせる目的で記紀編纂時に考えられた「用語」とも考えられる。

 

参考文献

     1.木下正史 「古代の水時計と時刻制」 「時の万葉集」高岡市万葉歴史館論集4に収録、風間書院(2001)
     2.岡本恭子 「かな日記と時間」 駒沢大学北海道教養部研究紀要、駒沢大学北海道教養部 29 (1994)
     3.今泉 隆雄 「日本古代の国家・社会と時刻制度 科研成果報告書」(2010)
     4.国立飛鳥資料館編 「飛鳥の水時計」 飛鳥資料館図録第11冊(1983)
     5.奈良県明日香村/関西大学文学部考古学研究室 「水落遺跡と水時計 解説書」 奈良県明日香村(2015)
     6.木庭元晴 「飛鳥時代の水落天文台遺跡から観測された天球」 関西大学文学論集67巻1号(2017)

     7.岩波書店刊 『日本書紀 (下)』日本文学体系68、岩波書店(1965初版/1992)
     8.宇治谷 孟訳 『全現代語訳 日本書紀 (下)』講談社学術文庫834、講談社(1988初版/2007)
     9.河村秀根/益根 『書紀集解 四巻』陰影版 臨川書店(1969初版/1978)
     10.石田譲二訳 『枕草子 (下)』角川ソフィア文庫、角川文庫2317 (1980初版/2007)
     11.臨川書店刊 『中右記』増補 史料大成<普及版> 日本文学体系68、臨川書店(2001)

 


2017/11/27 3.1に追記。
2017/10/27 Up

Copyright(C) 2017 Shinobu Takesako
All rights reserved