No. | 年 | 史料記述 | 内容 |
1 | 大化3年(647) | 是歳 壊小郡而営宮。天皇処小郡宮、而定礼法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外、左右羅列。候日初出。就庭再拝。乃侍于庁。若晩参者。不得入侍。臨到午時、聴鍾而罷。其撃鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。【日本書紀】 | 役人の出退時刻を決めその管理のために「退庁の時刻を知らせる鐘臺(楼)を中庭に建てよ」としている。なお登庁は寅の刻に門外に待ち、日の出で出仕する。退庁は正午なのでこの時期は日時計を使っていたことが分かる。 |
2 | 白雉4年(653)7月 | 被遣大唐使人高田根麻呂等(第2回遣唐使) | (帰国654年7月) |
3 | 白雉5年(654)2月 | 遣大唐押使大錦上高向史玄理(第3回遣唐使) | (帰国655年) |
4 | 斉明天皇2年(656) | 後飛鳥岡本宮遷都 | |
5 | 斉明天皇6年(660)5月 | 有皇太子初造漏剋。使民知時。【日本書紀】 | (遷都から4年後) 天智天皇が太子のときに漏刻をつくり民に時刻を知らせた。 |
6 | 天智天皇2年(663)8月 | 白村江の戦い | |
7 | 天智天皇6年(667)3月 | 近江大津京遷都 | |
8 | 天智天皇7年(668)7月 | 於浜臺之下諸魚覆水而至【日本書紀】 | 浜臺(浜の御殿)の下に魚がたくさん集まったという記事。『藤氏家伝』では「浜臺」は「浜楼」としており、『日本書紀』では「楼」を「臺」と呼んでいることが分かる。 |
9 | 天智天皇10年(671)4月(25) | 置漏剋於新臺。始打候時。動鍾鼓。始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時、始親所製造也。云々。【日本書紀】 | (遷都から4年後) 漏刻が新臺に置かれ始動した。天智天皇が太子のころ作った漏刻としているので、遷都にともない、鐘楼が新築され、漏刻が飛鳥から移設されたと考えられる。 なお訳本では「動鍾鼓」を「鍾鼓をとどろかす」としているが、漢字の「動」には「とどろかす」という意味はない。これは江戸時代の河村親子の『書紀集解』の踏襲。
この日はユリウス暦では671年6月7日であるが、なぜか16世紀に制定されたグレコリオ暦での671年6月10日が採用され、6月10日が「時の記念日」となっている。
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10 | 天武1年(672)6〜7月 | 壬申の乱 | |
11 | 天武1年(672)冬 | 飛鳥浄御原宮遷都 | |
12 | 天武天皇4年(675)正月朔(1) | 大学寮諸学生。陰陽寮。外薬寮。及舎衛女。堕羅女。百済王善光。新羅仕丁等。捧薬及珍異等物進。【日本書紀】 | この記事が「陰陽寮」の初出でこれををもとに陰陽寮は天武天皇が作ったことになっているが、この記事は「元日に陰陽寮などが珍しい物を天皇に奉った。」というだけの記事。逆にこの記事から陰陽寮(若しくはそれに類する部署)はこれ以前に存在していたことが分かる。当然、陰陽寮の漏刻を管理する部署は斉明天皇6年(660年)の漏刻の運用開始時からあった。 |
13 | 天武天皇4年(675)正月(5) | 始興占星臺。【日本書紀】 | (遷都から2年後) 「占星臺」と呼ばれる「楼」が初めて建てられた記事。しかし「漏刻臺」と同じ陰陽寮の管理下なので機能的(天体観測の楼)には「漏刻臺」との違いは無い。 |
14 | 長徳元年(995)7月(4) 【推定】 | 時司などはただかたはらにて、鼓の音も例のには似ずぞ聞こゆるを、ゆかしがりて、若き人々二十人ばかり、そなたに行きて、階より高き屋に登りたるを、これより見上ぐれば、ある限り薄鈍色の裳、唐衣、同じ色のひとえがさね、紅の袴を着て登りたるは、いと天女などこそえ言ふまじけれど、空よりおりたるにやと見ゆる。同じ若きなれど、おしあげたる人はえまじらで、うらやましげに見上げたるも、いとをかし。【枕草子 156段】(角川ソフィア文庫)
| 時司は陰陽寮で漏刻を管理し時刻を知らせる役所。 女房約20人が陰陽寮の鐘楼に向かい、そのうち十数人が鐘楼の屋上に登り、それを清少納言が隣の屋敷から見上げている様子を書いたもの。この記述から鐘楼の屋上は露天であまり高くない2〜3階ぐらいの高さであり、鐘鼓などの機材があっても十数人が立って居られるような広さがあったことが想像できる。水落遺跡は4間(10.95m)四方[文献1]で高さは9m程度[文献4]とされているので、同等の大きさとも考えられる。また登るのを助けた人も清少納言から見えているので屋上へは外階段がついていてそれを登ったようである。これは漏刻が設置されている室内への温度変化を少なくするためかもしれない。
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15 | 大治2年(1127)2月(14) | 焼亡之興、火起醤司小屋、焼陰陽寮、(中略) 陰陽寮鐘楼皆焼損、但於渾天図漏刻等具者今取出也、往代之器物此時滅亡、尤為大歎者、抑陰陽寮鐘楼、昔桓武天皇遷都被作渡也、其後今逢火災、至今年三百三十七年、今日焼了(以下略)【中右記】 | 陰陽寮の鐘楼が火事で焼失した記事。 記事によりこの陰陽寮の鐘楼は平安遷都時(794年)に建てられたもので、鐘楼の中には漏刻の他に渾天図(天球儀)のような天文設備も設置されていたことが分かる。 |