1.はじめに
飛鳥時代には南北に10〜20km伸びる直線道路があったことが知られている。大和にあった3古道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれ、難波宮から南に伸びる道は難波大道と呼ばれている。その前からあったとされる太子道が斜めに横切り「筋違道」とよばれていることとは対照的である。これらの直線道の建設年代は確定していない。ただし、難波大道に関しては最近の発掘状況から、7世紀中期以降、前期難波宮の孝徳天皇の時代(645-654)の、『『日本書紀』孝徳天皇白雉4年(653)の「處處(ところどころ)の大道を修治る(つくる)」という記事に相当する可能性がある』(注1)とされている。また大和3古道は壬申の乱(672)で使われていることから、それまでには建設されていたとされる。ここでは建物の方位との関係で直線道路の建設年代を推定する。
図1 古代の直線南北道路
[地図はカシミール3Dによる]
2.これまでの年代推定
『日本書紀』には上記孝徳天皇白雉4年(653)条以外に、推古天皇21年(613)11月に『難波(なにわ)より京に至る大道(だいどう)を置く』を置くとあり、大和3道の建設時期は大きく分けて、これを根拠とする推古天皇時代の説と前述の記述を根拠とする7世紀中期の説がある。ただし側溝等からの発掘遺物としては7世紀中期のものも出ていないらしい。以下例を示す。
近江俊秀(2012)p.117は七世紀初頭前後に大和と河内の直線道路網が作られたとする。また同p.35では五世紀後半には大阪府法円坂遺跡で正方位による倉庫群があり、6世紀後半には方位に則った飛鳥寺等もあるとする。また方位の測定方法の例としていわゆるインディアンサークル法を示して、この時代でも正方位での建設は可能としている。
和田萃(2006)p.10は「奈良盆地を南北に縦走する古道、上ツ道・中ツ道・下ツ道が敷設された時期も、私見によれば孝徳朝末年(654)〜斉明朝初年(655)のことであった。」とする。また、同p.15ではこの道路の敷設が斉明二年の大土木工事を可能にしたとする。さらに、上ツ道は斉明紀の工事に使われたとする石の産地である石上の山地にぶつかる。(注2)
3.推定建設年代の範囲
近江俊秀(2006)は、天智天皇は近江大津宮に遷都(667)と推古16年(608)に日本へ来た隋使の時代には水路と考えられることから(注3)、608〜667の60年間の間に、これらの道路がつくられたとしている。和田萃(2006)p.14も大津遷都当時すでに施設されたとみるべきだとする。両者とも期間の下限は大津遷都でほぼ一致している。ただし、斉明天皇5年(660)には百済が唐と新羅によって滅ぼされ、それに備えるため筑紫の朝倉宮に遷幸している。これ以後の大和での道路の整備は首都防衛の軍事面からも意味がないので下限は660年頃となる。
なお日本書紀天武紀元年(672)の壬申の乱に関する記述があり、この時すでに奈良盆地の古道三道は敷設されていたとされる。『則ち軍を分りて、各上中下の道に当てて屯(いは)む。(天武紀元年七月)』
4.正方位への移行時期をもとにした建設年代の絞り込み
建設年代の上限推定のため正(南北)方位への移行の時期を考える。表1が初期の寺院と宮殿の方位の一覧である。確かに6世紀末に飛鳥寺などの寺院が正方位で建設されているが、法隆寺などはその限りでないことがわかる。また蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳も北から東へ30度方向を向き正方位ではない。法隆寺は太子道の傾き(北から西に約20の偏位)建てられているとされる。太子道は太子が斑鳩から飛鳥に直行するための道で、太子道がそのまま飛鳥中心地まで延びていたとされる。(柏原市文化財課(20119)「飛鳥へ至る ー太子道ー」)その傾きに合わせて飛鳥岡本宮も建てられた可能性もある。いずれにしてもこの時代までは宮殿の建設には正方位が受容されていなかったことになる。この状況で国家として、南北に直線道路を敷設する発想が起きる可能性は少ないと考える。(注4)
正方位で建てられたと考えられる宮殿は百済宮(未発見/未確認)が初めであるが、これは百済大寺(注5)という寺院が併設されたためとも考えられるので、最初に正方位で建てられた宮殿は飛鳥板葺宮ということになる。従って直線道路の建設の上限は643年前後となる。しかし、645年には乙巳の変が起きて皇極天皇から譲位された孝徳天皇は、造営された前期難波宮に移り、最後には飛鳥に戻ることを拒否して654年に難波宮で亡くなっている。したがって、645年から654年の孝徳天皇の間に飛鳥の補給路である3古道を整備する可能性は無い。
結局3道が建設された可能性がある年代は、皇極天皇の時代(642-645)か、皇極天皇が重祚した斉明天皇の654から660年頃までとなる。しかし、皇極天皇の時代は蘇我親子が国政を執り実権はなかったと思われる。したがって直線道路が敷設された有力な年代は後半の斉明天皇の時代となる。
表1 初期寺院と宮の創建時代と方位一覧
史跡 | 創建年代等 | 天皇名(創健者) | 正方位 | 偏位 | 数値(真北からの角度) | 方位の出典 |
豊浦宮 | 592 | 推古 | X | | | 酒井龍一(2011)p.17 |
飛鳥寺 | 593 | (蘇我馬子) | △ | 西 | 1度33分44秒以上 | 奈文研(1997-11)p.55 |
四天王寺 | 593 | (聖徳太子) | △ | 西 | 約3.5度 | 現在位置での筆者の概略測定 |
小墾田宮 | 603 | 推古 | X(?) | | | 酒井龍一(2011)p.17 |
太子道(筋違道) | ? | ? | X | 西 | 約20度 | 柏原市文化財課(2019) |
法隆寺 | 607 | (聖徳太子) | X | 西 | 約22度 | 柏原市文化財課(2019) |
飛鳥岡本宮 | 630 | 舒明 | X | 西 | 約20度 | 酒井龍一(2011)p.21 |
百済宮(百済大寺) | 640 | 舒明 | (○) | | | 酒井龍一(2011)p.17 |
飛鳥板葺宮 | 643 | 皇極 | ○ | | | 酒井龍一(2011)p.17 |
前期難波宮 | 652 | 孝徳 | ○ | 東 | 23分39秒 | 宇野隆夫(2010)p.4 |
難波大道 | (653以降?) | (孝徳 or 斉明) | ○ | 東 | 26分11秒 | 宇野隆夫(2010)p.45 |
大和3古道 | (654頃?) | (斉明?) | ○ | 西 | 25分(下ツ道) | 須股孝信(1994)p.321 |
後飛鳥岡本宮 | 656 | 斉明 | ○ | | | 酒井龍一(2011)p.17 |
近江大津宮 | 667 | 天智 | ○ | 西 | 約1.5度 | 宇野隆夫(2010)p.49 図6 |
飛鳥浄御原宮 | 672 | 天武 | ○ | | | 酒井龍一(2011)p.17 |
大宰府条坊 | (684) | 天武 | ○ | 東 | (大宰府政庁U期(中軸線)と同等) | 井上信正(2009)p.20 |
藤原京 | 694 | 持統 | ○ | 西 | 41分51秒*1±24分 | 小澤毅(2016)p.11 |
平城京 | 710 | 元明 | ○ | 西 | 19分36秒*1±4分55秒 | 小澤毅(2016)p.11 |
大宰府政庁U期(中軸線) | (713頃) | 元明 | ○ | 東 | 18分20秒*2 | 井上信正(2009)p.19 |
後期難波宮 | 726 | 聖武 | ○ | 東 | 16分14秒*3 | 李陽浩(2005)p.93 |
恭仁京 | 740 | 聖武 | ○ | 西 | 約1度 | 宇野隆夫(2010)p.49 図6 |
長岡京 | 784 | 桓武 | ○ | 西 | 7分 | 宇野隆夫(2010)p.45 |
平安京 | 794 | 桓武 | ○ | 西 | 22分55秒±48秒 | 宇野隆夫(2010)p.43 |
*1 方眼紙(直角座標)の補正西偏6分を筆者が加えた。
*2 筆者が大宰府政庁における直角座標の補正16分04秒(西偏)を加えた。
*3 筆者が難波宮大極殿における直角座標の補正16分17秒(西偏)を加えた。
5.方位からみた難波大道の建設時期
積山洋(2010)p.80では,大和川今池遺跡の難波大道の中心点を[世界測地系:X=-155960.0,Y=-43803.75]として,前期難波宮の偏位の延長は東へ7m余りの位置を通過するとし,道幅18m弱の東端付近とする。また,後期難波宮は,それから20m(中心点からは27m)東方を通過するとしている。これから建設時期として,幸徳朝や天武朝の前期難波宮とは言い切れないが,後期難波宮の聖武朝よりは分があるとする。なお,積山洋(2010)p.74は天武朝を主張している。
これを地図に落としたのが右図2である。中心点[世界測地系:X=-155960.0,Y=-43803.75]を緯度経度に変換すれば,図上にピンを立てた点となる。道幅を側溝までいれて若干広くしているが,状況はほぼ同じである。なお,難波宮大極殿までの距離は約10kmである。
したがって,難波大道の方位は前期難波宮(652)造営とほぼ同時期に同じ方位測定法により測定された可能性が高いと考えられる。本文冒頭の『『日本書紀』孝徳天皇白雉4年(653)の「處處(ところどころ)の大道を修治る(つくる)」という記事に相当する可能性がある』と整合する。もし天武朝とするならば,20年以上,ほぼ一世代後の時代であり,偶然に同等の偏位を得る可能性は少ないと考えられる。
なお,この中心点から難波宮大極殿跡の中心点を見た方位は真北から東へ25分57秒であり,表1の26分11秒より若干小さい。
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図2 大和川今池遺跡付近の難波大道
[地図はGoogle earth Proによる]
赤線:難波大道(東偏25'57")道幅21m(17m+側溝各2m)と想定。
オレンジ線:前期難波宮(652)の偏位(東偏23'39")の延長線
黄線:後期難波宮(726)の偏位(東偏16'14")の延長線
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6.正方位に関する考察
宇野隆夫(2010)p.54-56をみると、インディアンサークル法で方位を決めた場合でも誤差は数十分以下としており、数百m規模の施設で数度の誤差がでている飛鳥寺や四天王寺(現在の位置とした場合)が正方位の思想で建設されたのか疑問が残る。また法隆寺が西偏20度で建てられていることから、「寺院は正方位で建てる」という決まりも無かったと考えられる。いずれにしても数字の出ている前期難波宮以降の正方位については、大津京のような急造された宮を除き、真北からの偏差が1度以内であり新しい技術が導入されていることは確実である。
特に飛鳥板葺宮は、西に20度偏位のあった飛鳥岡本宮の焼失した跡地を造成して正方位の宮殿を建てている。ここで正方位が導入されたことは明らかである。中国の「天子南面」の思想が取り入れられ、天皇は祀られる側になったことになる。さらに皇極天皇は皇極天皇元年(642)8月1日に雨乞いのために史上初めて「四方拝」を行ったことも正方位受容の傍証となる。乙巳の変以前から思想的には天皇中心に進んでいた。
この技術や思想の導入に関係するのは630年の第1回遣唐使の派遣(帰国は632年)であり、帰国した遣隋使船で隋に渡った留学生らの影響が大きいと考えられる。日本書紀に残る天文記事も推古紀の赤気や日食の2件を除くと、舒明紀から皇極紀の634〜643年(9件)に集中している。第2回遣唐使の派遣は653年(帰国は翌年)、第3回は654年(帰国は翌年)であり、この時期も南北道路敷設の推定時期と重なる。660年には漏刻が運用開始されており、それもこれらの遣唐使によるものと考えられる。このような天文や測量の技術は唐から直接吸収若しくは伝来した可能性が高い。
7.まとめ
正方位から直線道路の建設時期を推定した場合、その範囲は654年から660年頃までとなり、上記和田萃(2006)の説と重なる。また,難波大道も同じ時期と考えられる。
(注1):大阪府柏原市文化財課 難波より京に至る大道を置く(2019年11月10日) [「難波大道」の設置時期]の項による。
(注2)古代の古道の説明図では上ツ道も他の道に合わせ直線で北部まで伸ばしてある図をみかけるが、図1のように、石上以北は山の尾根が連なり、この山々を縦断して北に直線道路を引く意味はない。ここから北はたぶん古くからの山の辺の道につづく山の裾野を這う古道だろう。石上から東西に竜田道が通り、斑鳩を経由して難波に続いていた。
(注3)武澤秀一(2017)p.119はこの書紀の記述からこの時点(608)では太子道もなく、太子道の完成が613年であるという説があることを紹介している。『難波と飛鳥を結ぶ「大道」山本』と記載されているが検索できず。
(注4)須股 孝信(1994)p.330は、大和の条里制も下ツ道とあまり違わない時代の施工と想定している。
(注5)百済大寺には高さ100mほどの9重塔が建てられたとされ、これも遣唐使による技術の導入と推定できる。
参考文献
井上信正「大宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナル 588 p.19-23 (2009)
宇野隆夫 「ユーラシア古代都市・集落の歴史空間を読む」勉誠出版(2010)
近江俊秀「下ツ道(5)−下ツ道敷設時期をめぐる研究」両槻会 遊訪文庫(2009)
近江俊秀「道が語る日本古代史」 朝日新聞出版 (2012)
小澤毅 「日本古代の測量技術をめぐって」ふびと 三重大学歴史研究会 67 (2016)
柏原市文化財課 「難波より京に至る大道を置く」(2019年11月10日)
(http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2019063000016/?doc_id=11119)
酒井龍一 「蘇我馬子の都市計画: 画策は槻の広場でいたすべし」奈良大学文学部文化財学報(2011)
積山洋 「複都制下の難波京」東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究(2010)
須股 孝信「大和条里計画の使用尺度と測量技術に関する検討」土木史研究 14(1994)
武澤秀一 「建築からみた日本古代史」ちくま新書 1247 筑摩書房(2017)
奈良文研 「飛鳥寺の調査−1996-1・3次、第84次」奈文研(1997-11)
李陽 浩「前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」難波宮址の研究 13 (2005)
和田萃 「新城と大藤原京――万葉歌の歴史的背景――」萬葉学会 萬葉196 (2006)