太子道(筋違道)経路再考(2023/02)


 

 下ツ道の建設年代を考察した時の太子道(筋違道)の想定経路は、右図のように(A)(B)の2点を単純に結んだものだった。 (A)点は、太子道が屈折して南部に下る寺川堤防そばの直線部の起点。(B)点は保津・宮古遺跡の第14次調査で発掘された地点。それでも、多地区など想定される経路を通過しており問題はなかった。しかし、先月太子道を踏破(2023年1月)した後に、再度太子道の検索を行ったところ、『筋違道』として数か所発掘が行われていたことがわかった。

 前回想定した経路と大きく違っていた点は、「多地区」で『筋違道』の東側溝跡と考えていたのは、西側溝跡だったらしい。保津・宮古遺跡の北では発掘結果はなかったので、経路が保津・宮古遺跡より南部では東にずれ、北部では西にずれることになる。

 田原本町文化財調査年報から得た発掘情報が下の表1である。それに、当初考えた直線部の北端及び、下ツ道との想定交差地点を加えた。それらを通る近似線が右図の式の線になる。

 方位は、方位=90-atan(3.061983)+0.1237(直角座標補正、約7.5分)=18.21°(真北から西偏)となった。 当初の推定の17.8°から0.4°西に振れたことになる。

 『筋違道』の道幅は当初の推定と同じく、側溝を含まない道幅が22m、東西の両側溝をそれぞれ3mとし合計で28mと仮定した。推定線は誤差の少ない、保津・宮古遺跡第14次①を中心に南北にこの18.21°の方位で延長した。

 なお、中心線での式は、
  y = -3.061983 x X - 221527.256908 となる。

【西側溝東縁線のグラフ】

【表1 計算に使用したデータ(西側溝東縁)と推定線(近似直線)との誤差】(誤差は推定線が正が西、負は東にあることを示す)
 表の最初と最後のデータは中心点より11m西にずらしてある。なお、多の発掘地点では、その東に幅の広い西側溝SD-51(6.5m)があるが、こちらは後年のものと推定した。また、東側溝も12m程度が見つかっている(多新堂遺跡第5次「年報20(2010)p.24-26」)が、これも後年の拡大と考えた。
旧日本測地系 世界測地系 場所 計算値(近似式) 田原本町文化財調査年報
名称 Y座標(m) X座標(m) Y座標(m) X座標(m) 緯度 経度 Y座標(m) 誤差(m) 号数 ページ
当初推定起点(直線部北端) - - -20952.47 -157346.56 - - -20972.1 19.6 - -
保津・宮古遺跡第14次① -19863.91 -160285.04 -20125.35 -159938.53 34.558066 135.780691 -20125.6 0.2 5(1994/95) 26
保津・宮古遺跡第14次② -19862.78 -160289.98 -20124.22 -159943.47 - - -20124.0 -0.3 5(1994/95) 26
保津・宮古遺跡第14次③ -19861.83 -160294.96 -20123.27 -159948.45 - - -20122.3 -0.9 5(1994/95) 26
保津・宮古遺跡第14次④ -19860.92 -160298.91 -20122.36 -159952.40 - - -20121.0 -1.3 5(1994/95) 26
筋違道第4次(保津) - - -20026.00 -160255.00 34.555215 135.781781 -20022.2 -3.8 26(2016/17) 81
筋違道試掘(バースデイ)① -19728.24 -160738.73 -19989.65 -160392.18 34.553979 135.782180 -19977.4 -12.2 11(2001) 30
筋違道試掘(バースデイ)② -19722.77 -160755.08 -19984.25 -160408.58 - - -19972.1 -12.2 11(2001) 30
筋違道第3次(薬王寺東遺跡) - - -19939.00 -160533.00 34.552710 135.782735 -19931.4 -7.6 23(2013) 71
多新堂遺跡第3次(SD-52) - - -19157.52 -162873.83 34.531621 135.791303 -19166.9 9.4 19(2009) 58
下ツ道推定交差地点 - - -18771.93 -164055.61 - - -18781.0 9.1 - -
 (注:地図座標系でのX座標とY座標は、数学でのX軸、Y軸とは逆。)  

 

推定線の評価(北部)
 北部の直線部の起点は、右下の図のように、直線部の最北部を想定していたが、今回の推定線(左下図)では、西に寄り、ちょうど北からの道と接続するような経路となった。当初はこのような経路だった可能性の方が高い。実際の『筋違道』は現状残ってる道の左側にあったのだろう。現状のように、このような直線道路の入り口から先が見通せないのは不自然だ。
【今回の想定経路】
【前回の想定経路】
推定線の評価(保津付近)
 現在の『筋違道』はちょうど保津・宮古遺跡第14次の北で途絶えているが、右図の発掘成果でその存在が確認されている。想定線より発掘地点は10m程度西寄りにある。

推定線の評価(多付近)
 多の斜めの畑のあぜ道で想定してたのは東側溝だったが、発掘結果では西側溝となる。表1の誤差から、実際にはこの計算の想定線より10mぐらい東寄りを通っていたようだ。保津付近の発掘結果を考慮すると±10m程度の振れがあるようだ。

推定線の評価(下ツ道との交差点)
 施工された時期が違うので、下ツ道の方位はこの『筋違道』の北と南で違う。今回この付近の経路は東に寄ったため、想定される当初の下ツ道の北への起点とほぼ重なることが確認できる。また、寺川がこの経路に沿って北から東に流路が変えられている。したがって、この残された流路が、下ツ道沿い運河から連なる、『たぶれ心の渠』である可能性がより高くなった。この時、これ以南の『筋違道』は廃止され、ここより南部に新しく引かれた『下ツ道』に替わったのだろう。

 この地点には大きな東西道が通り橋があるが、米軍の写真にはこの辺りに大きな道や橋はなく、古道とは関係なさそうである。

使用した発掘データはこちら


推定線の評価(横大路南部)
 今回の見直しで若干外れてしまったが、このクランクはやはり『筋違道』に関係するものだろう。

推定線の評価(日高山切通し)
 藤原京の朱雀大路の切通しで有名な日高山だが、北西の切通しが『筋違道』の方位にほぼ合っていることが分かる。

推定線の評価(小墾田宮・田中宮)
 『筋違道』の経路としては、飛鳥川の東を通る経路も山を避けた直線路として考えられる。しかし、それを否定するのが、舒明天皇の田中宮の存在だ。舒明天皇の時代には『筋違道』は唯一の官道である。もし、『筋違道』が飛鳥川の東を通っていれば、川向こうの不便な地に宮を作ることは無かっただろう。彼は『筋違道』の脇に宮を作った。

 右の図では、飛鳥川東岸の小山の、さらに東の経路も見えるが、この経路だと耳成山にぶつかってしまう。したがって、この経路が日高山を避けて通せる、宮に近い最東端の経路といえる。また、大前提として道の方位は、当時の聖方位である約20°西偏という制限があった。



  まとめ

   今回の発掘データによる『筋違道』の経路の見直しにより、『下ツ道』は当初、『下ツ道』と『筋違道』が交差する地点を起点として北に向けて敷設されたことが、より明確になった。

【GooleMapでの経路表示】(2023/02/07 北部を更新)


2023/02/05 掲載

Copyright(C) 2023 Shinobu Takesako
All rights reserved