古代の都城と古道を巡る旅 初日:難波宮大極殿跡


 

 初日は鹿児島から伊丹空港へ。
 京セラホテル前から出ていた、大隅半島からの空港行きバスも、コロナで日に8便から、白抜きの2便に無期限で減便中。
 鹿児島県側からみる霧島連山はこんな感じ。一番右側が『竜馬とおりょう』が新婚旅行で登った高千穂の峰。
 焼酎に『霧島』というのがあるが、あれは鹿児島の焼酎ではなく、この裏側の都城の焼酎。向こうから見れば、こちらが裏側だけど。
『法円坂倉庫群』
 伊丹空港からモノレールと阪急宝塚線を乗り継いで梅田に着いけど、最初は方向感覚が分からず。結局一番北に着いたらしく、一番南の地下鉄・谷町線のホームを目指して進む。そして、難波宮・大極殿がある、谷町線の谷町4丁目で降りる。まずは、NHKの裏にある『法円坂倉庫群』を見る。大阪歴史博物館を目指したが、結局NHKと一体のビルだった。博物館には予算の関係で入らず。
 説明がないとわからないが、地面の丸いのは倉庫の柱の跡。向こうの倉庫跡の柱は、もう少しちゃんと作ってあり、倉庫が一軒だけ復元してある。難波宮との位置関係は、下右図のように、難波宮の北西部にある。『法円坂倉庫群』(下左図緑色)のすごいところは、5世紀後半の遺跡とされるにも関わらず、ほぼ正方位で建てられていること。しかし、右側の倉庫群は若干傾いているので、北極星を使った測量ではないと思われる。
なお、難波宮の大極殿跡は、右下図青色の後期難波宮の大極殿の土台。
【法円坂倉庫群(緑の建物跡)】
【難波宮前期(オレンジ)後期(緑) 左上が法円坂倉庫群】
『難波大道』
 難波の宮から南に十数kmのびていた直線道路が『難波大道』。 613年に最初に整備された最古の国道と説明されているが、その方位は650年頃に造営された『初期難波宮』とほぼ同じ。この道が613年に整備されたという根拠は実はなにもない。『難波大道』は、方位や日本書紀の記述から653年の孝徳天皇の時代に整備された大道。630年代から北極星による測量が行われていて正方位の宮が現れる。推古朝にはまだその技術や思想はない。
 推古朝の道は何処という話になるが、それは当然『太子道』に接続されていた道。この簡単な地図でも分かるように、飛鳥から『太子道』で斑鳩まできて、山を避けて大和川沿いに龍田道で、大阪平野へ抜けていた。
 竹内街道は、この地図でもわかるように、飛鳥から真西の港である『住吉津』(すみのえのつ)に出る道。わざわざ山道を通るのはそのため。なお、絵にある大和川は後代の水路が変えられた後のもので、飛鳥時代には北に流れていた。
『難波宮・大極殿跡』
 復元されている大極殿・基壇は奈良時代の後期難波宮のものだ。訪れたのは、厳寒期。この広大な敷地に観光客はおらず、いたのはスケボー練習のおにいさんとゴルフ練習のおじさんだけ。大極殿中央の白いのはそのお兄さんの脱いだ白のジャケット。
 大極殿の南の朱雀門から難波大道はのびていたが、現代ではビルが立ち並びその面影はなにもない。

 他に見るものはないので、これで早々に引き上げて、梅田の探索へ。

【大極殿基壇から南方向を望む】
【西から基壇を望む】
【南東から基壇を望む】


2023/01/27 掲載

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