古代の都城と古道を巡る旅 4日目:太子道想定線を行く(25.5km)


 

 この日は太子道踏破ということでホテルを出たが、出発地点の『法隆寺駅』についたのは朝の11時で、ゆっくりした出発だった。なにぶん、4時間ぐらいで3時過ぎにはつくのではないかと、甘い算段をしていたので。
 予定では、下ツ道との交差点迄いくはずだったが、日没で歩道も無い下ツ道の上の道を歩くことになり、危険ということで、近鉄橿原線『新ノ口駅』で終了。約26km/7時間歩いたことになる。

 右図の赤い線が当日のGPSの記録。
 ピンクの線が太子道想定中心線。

 『法隆寺駅』で電車を降りて、北口から東の踏切を渡らずに、北方向に池を目指す。
 時間があれば法隆寺に寄ることも一案。

 この辺りの「安堵町」は、日本書紀で隋の使節を迎えた、「阿斗の河辺の館」(迎賓館)とも比定されています。他の比定地として、保津阪手道から東にそれて、大和川にあたる阪手付近をあてる案もありますが、大和川を水行すれば良いものを、いったん陸を行く意味がありません。また、その頃にはまだ太子道はなかったでしょう。


 池で左に折れて東へまっすぐ進む。この道が初期の『北の横大路』へ続く道と思われる。池の脇にある案内板は上が「東」なので注意。世の中には方位の矢印を描いておけば地図の向きは構わないという人が一定数いる。先に進むと『上宮遺跡公園』がある。
 『上宮遺跡公園』の太子様。
 ここで川を渡る。手前の橋が「新業平橋」、先にあるのが「業平橋」。「業平橋」を渡り『天満宮』をめざす。
最初の神社『天満宮』
 入り口の突き当りで右から回ったために、一回りしてしまった。左に行けばすぐだった。
 この辺りには業平伝説があるらしく案内板があった。
「太子道の痕跡」の北端?
 『天満宮』を出て、真南に進むと踏切を渡る道に突き当たる。踏切を渡り、線路沿い50mぐらい行くと、この写真の細い道に入る。ここが「太子道の痕跡」の北端らしい。この道の方角に次の神社『飽波神社』がある。
「太子道の表示版」
 GoogleEarthで見た時の感があたり、この細い道がいったん途切れるところに、唐突に太子道の案内板があった。
Google Earthではこんな感じ。
『飽波神社』
 大きな道を渡った先に『飽波神社』がある。中には太子様の人形達も。神社の脇にも太子道の案内板があった。

 『飽波神社』を過ぎたら、高架の下をくぐり、南に『杵築神社』を目指す。 畑のなかに巨大な太子様の像も。像の後ろの杜が『杵築神社』。 このあたりは、川が荒れるらしく、杵築神社が多くある。
『杵築神社』
 最初の『杵築神社』、とその由来。
『道標』
 さらに南に進み、橋を2つ渡ると左側に道標がある。
『杵築神社』
 橋を一つ戻り、田んぼの道を進むと次の『杵築神社』がある。  その案内板。
『油掛地蔵』
 『杵築神社』から少し東にいった場所に『油掛地蔵』がある。
その北向きのお地蔵様。

 『油掛地蔵』の次は、南に下り、『島の山古墳』の奥にある『比賣久波神社』を目指します。
『比賣久波神社』
 『比賣久波神社』は『島の山古墳』を囲む池のほとりの右の杜にあります。池にはカモたちがのんびりしてました。 なぜか正面からの写真を撮りわすれていました。Gooleストリートビューではこんな感じです。
『糸井神社』
 もう一度川を渡りなおして『糸井神社』ヘ。ここがようやく、明確な痕跡が残る太子道のスタート地点。 境内にはたくさんの絵馬が。法隆寺駅からここ迄で10kmぐらい、2時間半かかってしまいました。大変押してます。
『今なお残る太子道』
 ここからが、いまも残っている太子道。でもところどころ消えているので、注意が必要です。
「入り口」が分からない
 ここで迷うとは思ってませんでしたが、違った道を進んでました。もう少し先が見える道という先入観が邪魔してました。下の写真の「SUBARU」の家の前の道を入っていきます。ここの入り口からは見通しは効きません。
『白山神社』
 少し進むと右側に『白山神社』があります。ここには、『腰掛石』や『太子道を往く聖徳太子』の像がある。

『屏風杵築神社』
 白山神社の前には『屏風杵築神社』がある。  
『杵築神社』
 さらに進むと別の『杵築神社』が左側にある。  
太子道はいったん途切れるので要注意
 この先の踏切の前で、太子道はいったん途切れるので注意が必要。 クランクして、広い道の方で抜けます。まっすぐ行くと、GPSの奇跡のように池にぶち当たります。
踏切/『黒田駅』から先
 踏切には、近鉄田原線の『黒田駅』があります。ここからまた、『太子道』が復活します。
 この道沿いに『孝霊神社』があります。そして、京南和自動車道の高架のしたを通って進みます。2つの鏡作神社は太子道から外れているので、少し前で池にそれてすすみました。しかし、このあたりで『太子道』は消えるので注意が必要。鏡作伊多神社(保津)を出て、南に進む道に戻ったところで、方向感覚を失いました。 通る人に聞いても太子道を知りません。というか、このあたりでは太子道の痕跡はすでに消えてました。 とりあえず「バースデイ」の看板を目印に進みます。

『鏡作伊多神社(宮古)』の前を通るのが、『保津阪手道』です。『太子道』と同じ時代にはすでにありました。『保津阪手道』はこれを東に進んだ電車の踏切付近で発掘が行われ確認されています。『太子道』をここまでしか描いていない変わった地図を時々見ますが、間違いです。なぜなら、その南で『太子道』が発掘されているからです。また、さらにその先にも『太子道』の痕跡は残っています。ここまでしか描いていない人は、隋の使節がここで東に折れて保津阪手道の先の阪手の「阿斗の河辺の館」で休み、飛鳥に向かったと信じている人です。しかし、大和川を遡ればすむ行程を、苦労して陸路を通る意味は無いのです。

『孝霊神社』
 踏切を越えるとすぐに『孝霊神社』がある。
 その由来は、
『鏡作伊多神社(宮古)』
 『鏡作伊多神社(宮古)』は、太子道からはずれているので、少し前で左に折れ、池を目指す。 池の縁を進むと神社が見えてくる。  
 その由来は、
『鏡作伊多神社(保津)』
 『鏡作伊多神社(宮古)』から南に進むと『鏡作伊多神社(保津)』が見えてくる。 その由来。 神社から大きな道にでると、太子道は途切れているので方角を見失うが、バースデイの青い屋根が見るので、迷わずその方向に進む。進行方向右手に見えるのが『京奈和自動車道』の高架。

 
追記『バースデイで太子道側溝が見つかっていた』

 「バースデイ」の建設時に発掘が行われ、太子道の西側溝が見つかっていた。
左が旅行時点での想定線。右が発掘時のトレンチを描いたもので、SD-101が太子道の西側溝と推定されている。想定線は7mぐらい東にずれている。SD-51は後代のもので内容は不明とのこと。『田原本町埋蔵文化財年報 11 2001年度』p.30  【2023/02/03追記】

 
『バースデイ』からあと
『バースデイ』の前の道をそのまま真っすぐ進むと、飛鳥川にぶち当たる。 この道の東側には、地図で見ると細い道があるようだけど、バースデイの本通りからは、入るところが見つからなかった。
 したがって、2番めの大きめの道で東に進み、池の脇を通る道に入る。この道はまだ痕跡の角度だが、そのあとは続かない。住宅街では行き止まりになるので、また東に折れて、大きめの道で南にくだる。
そうすると、田んぼの中の水路が太子道と同じ角度で流れていることがわかる。
この田んぼの先も住宅街で行き止まりになるので、東に避けて南に進む。  
『バースデイ』からの道
 写真の歩行者用信号機の先が、バースデイの脇を南に進む道。これをまっすぐ進むと、飛鳥川にぶつかる。 2つ目の大きな道(コヒーの看板とかがある)、を左におれ、2つ目の道を右に折れると、左に池が見えてくる。
池の横の脇の道は『太子道』
 『太子道』の道標があった。
バースデイから池までの道順(追記)
 バースデイから『太子道』の「道標がある池」までの道順は、これが最適と思われる。 但し、最初に東に曲がってから、南に下る小道はほぼ幅が無く、人家の中の可能性がある。
『太子道』の痕跡の水路
 ここの水路の角度は『太子道』と合っている。
 これは逆方向から。
『太子道』の痕跡の水路のそばの春日神社
 水路沿いを歩いたら神社があった。
いよいよ『太子道』最終区
 日も暮れてここがこの日の最終区。痕跡最南端を見てから、下ツ道の上を走る道を帰ろうかと思ったが、歩道もない、交通量も多い道だったので断念。地図をみると、結局『太子道』コースに戻り、『新ノ口駅』で撤収。
『姫皇子神社』
 まずは、多(おお)の『姫皇子神社』にお参り。
 その由来は、
『多坐弥志理都比古神社』
 次に、『多坐弥志理都比古神社』にお参り。
 立派な社殿だった。
『小社神社』
 最後に『小社神社』にお参り。
 そばに太安万侶の記念碑があった
『太子道』痕跡最南端の畑
 5時過ぎてからたどり着いた、太子道の最南端の多(おお)の田んぼ。この南の田んぼは南北正方位で、このあたりだけが、地権の関係で太子道の角度で残ったようだ。Googleでみると、下のような感じで、想定道と重なっている。写真左のあぜが、東の側溝とかさなっている。その北の道も想定した側溝と重なる。

 帰り道に、道と間違って人の家に入ってしまって、(すぐ東の道は道ではなかった)夕暮れに写真をとっている行動を、不審がられて見ていた、おじいさんに、「ここは行き止まり。なにしてますねん?」とか聞かれてしまったが、ここが最後の太子道跡であることは知っておられた。


以上で日没終了
 新ノ口駅まで歩き撤収。
 GPSの記録では25.45km/7時間0分。(2023/01/23 10:49-17:49)
さらに以南の『太子道』の痕跡
 さらに以南の太子道の痕跡としては以下がある。
・右の地図での『米川』の太子道に沿った流れの変化。
・その下の赤丸内の水路の不自然流れ。
・また、『下ツ道』はこの写真の『太子道』との交点の、北と南で方位が違う。 すなわち、下ツ道は北と南で工事の時期が違い、当初の『下ツ道』は『太子道』との交点が始点だった。


2023/01/28 掲載

Copyright(C) 2023 Shinobu Takesako
All rights reserved