右図の赤い線が当日のGPSの記録。 ピンクの線が太子道想定中心線。
この辺りの「安堵町」は、日本書紀で隋の使節を迎えた、「阿斗の河辺の館」(迎賓館)とも比定されています。他の比定地として、保津阪手道から東にそれて、大和川にあたる阪手付近をあてる案もありますが、大和川を水行すれば良いものを、いったん陸を行く意味がありません。また、その頃にはまだ太子道はなかったでしょう。
『鏡作伊多神社(宮古)』の前を通るのが、『保津阪手道』です。『太子道』と同じ時代にはすでにありました。『保津阪手道』はこれを東に進んだ電車の踏切付近で発掘が行われ確認されています。『太子道』をここまでしか描いていない変わった地図を時々見ますが、間違いです。なぜなら、その南で『太子道』が発掘されているからです。また、さらにその先にも『太子道』の痕跡は残っています。ここまでしか描いていない人は、隋の使節がここで東に折れて保津阪手道の先の阪手の「阿斗の河辺の館」で休み、飛鳥に向かったと信じている人です。しかし、大和川を遡ればすむ行程を、苦労して陸路を通る意味は無いのです。
追記『バースデイで太子道側溝が見つかっていた』
「バースデイ」の建設時に発掘が行われ、太子道の西側溝が見つかっていた。 左が旅行時点での想定線。右が発掘時のトレンチを描いたもので、SD-101が太子道の西側溝と推定されている。想定線は7mぐらい東にずれている。SD-51は後代のもので内容は不明とのこと。『田原本町埋蔵文化財年報 11 2001年度』p.30 【2023/02/03追記】
帰り道に、道と間違って人の家に入ってしまって、(すぐ東の道は道ではなかった)夕暮れに写真をとっている行動を、不審がられて見ていた、おじいさんに、「ここは行き止まり。なにしてますねん?」とか聞かれてしまったが、ここが最後の太子道跡であることは知っておられた。