古代の都城と古道を巡る旅 6日目:中ツ道想定線を行く(22.2km)


 

 この朝、ホテル近くの橿原考古学研究所の博物館に行き観覧。土偶とか藤ノ木古墳の出土品が展示されていた。

偶然、図版の展示に『飛鳥古京跡3』も置いてあったので方位のページを急いで探し、隣の研究所の図書閲覧室コピーさせてもらった。この資料では思ったより真北に近い。

 天気は荒れないようなので、計画通り『中ツ道』をあるくことに。右図での、左の傾いた『太子道』をでこぼこに歩いた比べ、『中ツ道』はほぼ直線、既存の道を真南に向けて歩けば、間違えることはない。距離と時間は。22.2km/6時間。

 右図の赤い線が当日のGPSの記録。
 オレンジの線が『中ツ道』想定中心線。


越田(五徳)池を目指す  『大和郡山』で電車を降りて、左に郡山城を見ながら、平城京の九条大路である9号まで北にのぼります。そして、9号に出たらひたすら東に、越田(五徳)池を目指す。しばらくしたら、前方奥に佐保川を渡る大きな陸が見えてくる。この下が『羅生門』があった場所。

『羅生門跡』
 川を渡る橋の真ん中あたりに『羅生門跡』の案内板があった。この下が『羅生門』があった場所。したがってここを『下ツ道』が走っている。また、この真北に、平城宮の朱雀門、大極殿がある。橋の下にも、発掘現場の説明板があるようだけど体力温存で下には降りず。
『越田(五徳)池』
 しばらく行くと田んぼの先に、池の堤がみえてきた(下の写真)。階段が見えるので、田んぼのなかの小道を通って池の堤に登った。越田池は平城京造営時に長安を模して作られた、結構広い池。北西の角に小仏達が。よく見ると双体の像もある。この池の右(西)端を中ツ道が通っていた。
『越田(五徳)池 東岸』   『越田(五徳)池 西岸』
『中ツ道・実路』
 中ツ道の記事を読むと、『中ツ道』は平城京の辺りでは『京道』とよばれる道を通っていたとされている(右図で『京道』を通るピンクの道)。これは、ここに『京道』という字(あざ:地名)が残っていることが根拠になっている。また平城京時代に作らた越田池にもかかっていないことも有利な理由だ。しかし、『京道』が古代の『中ツ道』の跡とする考古学的根拠はなにもない。

 現在までの発掘成果では、『中ツ道』の中心線は右図のオレンジの線を通っており、『京道』より30mほど東にある。これは、平城京時代に『越田池』を造営するときに、『中ツ道』にかかってしまったために、平城京の条坊路を現在の『京道』の経路に西に移動したためだ。もともとの『越田池』は九条大路の北まであったが、近年埋め立てられてしまっている。したがって、『中ツ道・実路』は、地図のように『越田池』に完全に削られてしまっていた。

 平城京が十条まであった時代には、この『京道』は坊路だった。なので、十条の南に、本来の『中ツ道・実路』と『京道』を接続する道の痕跡がある。

 今回は、右写真の赤の経路が示すように、『越田池』の北西角を周り、道は無いが堤から降りて、『京道』を南に下った。ちょうど『京道』の東西に道があることになる。ここの道には川を渡る橋はないので、いったん白山神社まで戻り、754号沿いを南下した。『越田池』付近の拡大図

『上写真の①方向(南方向)』   『上写真の②方向(北東方向)』
『白山神社』

旅の無事を祈って、今日最初の『白山神社』にお参り。

中ツ道の最初の発掘現場へ

754号を下ってくると、右の地図では5差路にたどり着く。でも、ここには、知ってる人しか知らない下の十字路の看板がある。この5差路で中ツ道沿いを南から登ってきた『51号線』は真東に曲がっている。しかし、この道路標識には、南に下る『51号線』が書いてない。ちょと困り、とりあえず右に見える『須佐之男神社』にお参り。そのあと、ポケット地図で確認し、隠されていた南に下る『51号線』に入った。車は754号線を南下するようにだろう。

 5差路を過ぎて南に下ると、『京道』と『中ツ道』の接続路跡がある。けっこうなカーブだ。

 先に道が大きく東に曲がるのが見える。(右上の写真の①)
 曲がった道の先から北を見る。(右上の写真の②)
『池田町・中ツ道発掘地点』

 接続路のカーブからすぐの十字路が『池田町・中ツ道発掘地点』。『中ツ道』は県道51号沿いを通っていた。したがって、『京道』は『中ツ道』の跡ではない。

 この道の西側で、『中ツ道』の西側溝が発掘された。
 南から北東側を見た写真。
 これまでの発掘(斜線部)も51号の道を避けて行われているので、発見されていなかった。
SD02が中ツ道の西側溝と考えられる。
『51号バイパス』

 『池田町・中ツ道発掘地点』地点から少し行くと、51号のバイパスが東に折れるが、迷わず南進する小道を進む。51号沿いにはこういう路地とも言える旧道を進む。先にいくと、橋を渡り、その後ものどかな道を進む。

『地蔵堂と木』

 佐保川の支流の橋を進むと、バイパスが戻ってきて大きな道になってしまう。そのさきの佐保川支流の橋のたもとに、大きな木と地蔵堂がある。写真は川を渡り振り返って北方向を撮ったもの。

『櫟本・北の横大路の交差点』

 櫟本の住宅地を抜けると、交差点の信号機が見えてくる。ここが古代では、『中ツ道』と『北の横大路』の交差点だった。先に見えるのが西名阪自動車道。その間に次の発掘地点がある。
 交差点を過ぎてから振り返った写真。高低差がある。

『櫟本町・櫟本チトセ遺跡(Vol.30)・中ツ道発掘地点』

 今はメーカの倉庫が建っているが、この道沿いの東側で『中ツ道』の東側溝が発掘された。さらに古い古墳時代の遺跡も発掘された。ここは古代から要衝の地だった。
下の写真は『天理市埋蔵文化財センターだより Vol.29』に載る南から北を見た写真。道沿いのトレンチが中ツ道の東側溝発掘地点。中ツ道は51号の真下にある。右は現状。

『業平姿見の井戸』

 西名阪自動車道の下をくぐるとすぐに、『業平姿見の井戸』というのが現れた。
業平さんゆかりの史跡は太子道にもあり、忙しい人だったみたいだ。

『鉾立神社』

 『業平の井戸』の裏にあった、『鉾立神社』にお参り。

『喜殿町・中ツ道発掘地点』

 さらに51号を南に進むと、『喜殿町・中ツ道発掘地点』に着く。このコンビニの新設に伴う前の道の改修で、この道の下から発掘された。道が東に曲がっているのは、この前で西に曲がっているため。左の家が中ツ道の上にある。発掘時の動画ニュースが下。右の写真の左右の家は動画と同じ。この道の真下に『中ツ道』があることが分かる。

『前栽町』

 『喜殿町・中ツ道発掘地点』から進むと、前栽町に着く前に、昔の市営住宅みたいなものが見えてくる。今は住人はいないみたい。このまちも、このまま真南の道を進む。

『野仏』

 前栽町をすぎると、町外れに野仏さんたちがいた。

『山邊御縣坐神社』

 ようやくたどり着いた、中ツ道沿い最初の神社『山邊御縣坐神社』

『妙観寺跡・観音堂』

『山邊御縣坐神社』のなかにあった観音堂。

『山邊御縣坐神社』からの小道

『山邊御縣坐神社』の南の鳥居を出ると、車道と平行に走る小道があった。しばらくはこちらの道を歩いた。後で確認したら、こちらの小道の下に中ツ道が走っていた。現在の東を走る車道はあとからつくられたものだろう。
 右下の米軍の終戦直後の空中写真をみると、この細い道が昔の本道で、さらに古代には、『日本書紀』の壬申の乱の記述の通り、中ツ道が神社の中を通っていたことがわかる。古い時代に神社を避ける道が作られたことになる。いまではその上に新道がある。したがって、オレンジの中ツ道想定線がほぼ古代の中ツ道に沿っていることになる。[2023/07/09追記]


小道の途中から見た南方向の展望
『初王子神社』見つからず

『初王子神社』周りを半周してみたが、見つからず。 地図で再確認すると、奥まったところにあった。右の写真は神社の南裏の空き地。ここを『中ツ道』が通っていた。ここまでの途中に石塔もあり、さざんかも咲いていた。

『天皇神社』

小道は『初王子神社』の先の橋で自動車道と合流し終了。地図でみると、所々残っている。いずれにしても、『中ツ道』は自動車道の40mぐらい西を通っていた。
『天皇神社』の前に大きな公園があってトイレもありそうだったけど、道路側の入り口は閉鎖されており、半周回らないと入れないので断念。

『素盞男神社』

またしばらく行くと『素盞男神社』がある。
をの先で県道51号は東に折れている。51号は環状線みたいで、これで南北間をあるいたことになる。 この交差点に大きな常夜灯があった。いずれにせよ、南にまっすぐ進む。

村屋神社へ

『素盞男神社』からしばらく行くと5差路にぶつかるので、ここでも迷わず南の道を取り進む。そして、大和川を渡るとすぐに、日本書紀の壬申の乱にも登場する『村屋神社』に到着。この川は、初瀬方面に流れており、古代では重要な交易路だった。隋の使節も川で初瀬まできたと考えられる。 『太子道』で出てきた『保津阪手道』もこのあたりまでのびていた。したがって、この地は古代の要衝だった。

『村屋神社』

『村屋神社』は南向きの神社。この鳥居と社殿の中軸線に『中ツ道』が通っている。

『天満神社』

 次の『天満神社』へは『村屋神社』の南の鳥居から続く細い田んぼ道を行きます。小道の右(西)側には市営住宅があります。また細い道を含めて5差路にでるので、ここも真南に続く道を行きます。5差路から500mぐらいで、橋を渡り、南に行くと『天満神社』です。

『中ツ道の終点・藤原京大路への接続路』

 『天満神社』でて南に行くと、いよいよ中ツ道の痕跡が残る、中ツ道の終点・藤原京大路への接続路のクランクがみられます。右のオレンジの矢印で撮った写真ですがけっこうカーブしています。約400mで約100mクランクしています。

そして撤収

 中ツ道としてたどれるのは、このクランクまでです。この日は近鉄線を越えて『中ツ道』が通っているとされている横大路の『三輪神社』まで行きました。でも『三輪神社』は中ツ道から100m余り東にずれた地点にあります。

 1970年代に岸俊男氏は、地図の横大路上で、札の辻、三輪神社付近、上ツ道の間隔を測定し、3古道は等間隔であるとしました。これが、下ツ道、中ツ道、上ツ道は等間隔で、同時代に敷設されたという、間違った『神話』を生んだ原因です。しかし三輪神社に通っていたのは、藤原京の東二坊大路であり、中ツ道ではありません。また、藤原京内で中ツ道が発掘されたと数年前に発表されましたが、これも、中ツ道ではなく、東二坊大路です。岸俊男氏の『仮説』が、いまだに影響をあたえているのです。中ツ道は舒明天皇の時代に最初に敷設されたので間隔は違うのです。

 中ツ道は奈良時代でも条里制の規準として用いられ、横大路から南にも右の地図に記入したように、条里の区切り(高市郡路東25条4里)として残っています。奈良時代には逆に、藤原京の条坊跡は無視されたのです。
 また、この付近に、中ツ道と同時代に造営された舒明天皇の百済宮があるはずですが、まだ発見されていません。

これが、本日の総延長22.2km/6時間の行程の記録です。(2023/01/25 10:59-17:43)

『東二坊大路』が『中ツ道』ではないもう一つの証拠

 『中ツ道』は天香久山の山頂を通ってることになってますが、右の地図のように『三輪神社』を通る『東二坊大路』は、実は天香具山の山頂を通っていないのです。山頂を通っているのは、西約100mにあある『想定・中ツ道』なのです。なお『東二坊大路』の『三輪神社』から南のコーナン橿原香久山店にある黄色の印は『東二坊大路』の発掘地点です。本来の中ツ道からずれていることが分かります。これは、『東二坊大路』が『下ツ道』からの距離で測量されていて、天香具山を起点にしていないからです。


2023/01/30 掲載

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