日蝕の伝説



    延烏朗・細烏女の神話

    三国遺事より


     阿達羅王四年(西暦157年)、新羅の東海岸に延烏朗・細烏女という夫婦が住んでいた。ある日延烏朗が海岸で海藻を採っていると大きな岩があって延烏朗を日本まで運んでいってしまった。日本の国の人はただの人ではないと言って延烏朗を国王にしてしまった。細烏女が延烏朗を捜しに海岸へ行くとまた岩がありその上に夫の履き物が置いてあった。その岩の上にのると細烏女を日本へつれていった。細烏女は延烏朗に再会し王妃となった。

     この時新羅に日月の光が無くなった。日官が国王に「この原因は日月の精が日本に行った為です」と奏上した為、王は二人を捜しにやったが二人は日本へ帰らなかった。その代わり二人の娘の織った生絹を使いに渡し、天に祭るように言った。使者が新羅に帰ってから言葉通り天に祈ると、太陽と月がもとに戻った。この時祈った場所を迎日県又は都祈野という。


    EMAPで描いた日蝕経路   

    日蝕経路  大谷光男著「古代の暦日」では157年7月にあった日蝕の検証記事があるり、157年の日蝕は慶州あたりでは浅い食で「延烏朗・細烏女の神話が157年の日蝕をさしているものではない。」と結んでいる。

     問題は、翌年158年7月13日の皆既日蝕が迎日湾(東経129.3度北緯36.0度)のほとんど真上を通っており、EMAPの計算では17時44分に日蝕が始まり、食甚18時41分、皆既継続時間約30秒、19時15分食分0.36で日没とる。計算上若干ずれたとしても相当の深食で、この神話が史実にもとずいているのであればこの時の日蝕がもとになった可能性が高い。

     「三国遺事」は十二、三世紀にまとめられたものなので、二世紀ごろの記事にどれだけの信憑性があるのかの問題もあるが、ただ1年違いのこの日蝕がいままであまり関連づけられてない様なのには疑問が残る。

    参考文献
     ・大谷光男著「古代の暦日」雄山閣出版
     ・水谷慶一著「知られざる古代」NHK出版協会
     ・一 然著/金訳「完訳 三国遺事」朝日新聞社


    注:このページは1996年当時のEMAP/DeltaTで計算した結果で記述しており、最新版のEmapwin/DeltaTの結果では皆既ではなく、食分0.96程度の深蝕となります。(2015/03/16追記)


                    

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