飛鳥寺の造営に用いられた方位測量法


 

1.はじめに

     飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,蘇我馬子が寺院建立を発願し,596年に完成した日本最初の本格的な寺院とされている。創建時の飛鳥寺は,図1のように、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だったとされる。飛鳥寺は最初の正方位の寺院とされ、推古朝での3古道(下ツ道、中ツ道、上ツ道)の建設根拠とされることもあるが、発掘調査報告書から検証する。

図1 飛鳥寺伽藍配置図

【奈文研(1958) p.15 Fig.4より】
図2 飛鳥寺全体図

【奈文研(1958) PLAN1より】

2.飛鳥寺の中軸線方位

     最初の発掘調査報告書である奈文研(1958)により、飛鳥寺の南北中軸線については真北とされている。しかし、図1を見ると回廊などまわりの建物は約1.5度西に振れている。これについて奈文研(1958)p.15は「これらの遺跡は伽藍中軸線をよく真北に通しているにもかかわらず、 塔および仏殿を除いてはいずれも多少の方位の「振れ」を持つており、おのおので異なっている(Fig.4参照)。その振れ方は回廊が各辺で異なるために不正な四辺形となってしまうような状態で、全く仕事のにごりと理解される性質のものである。」と解説している。

     なお、奈文研(1958)では図2のように、門を含む回廊部分の建物群は礎石が残されているが、中心伽藍の塔および仏殿(3つの金堂)は、基壇が礎石ごと削られていたとする。そのために、これら中心伽藍の建物本体の正確な方位は測定できていないと考えられる。

     報告書では「仕事のにごり」としているが、南北方位である西門は約1.5度西偏、他の礎石から測定された東西方位3箇所の平均も1.34度±0.28度の西偏であり、真北の南北中軸線から東西直線を割り出したものではない。したがって、門を含む回廊の南北中軸線は約1.5度西偏であると考えられる。これにより、飛鳥寺には「真北とされる中心伽藍の中軸線」と「約1.5度西偏の回廊部の中軸線」の2つがあることになる。

     また図3では、塔心礎に刻んである南北東西線の十字の溝が、正方位の線に乗らずわずかに西偏しているのがわかる。このずれを図3の画像の溝の中心で計測すると平均で約1.7度程度の西偏である。これは回廊の建物の方位とほぼ一致しており、この一致が工事の施工誤差で偶然おきることは無い。これは、塔心礎の設置にも「1.7度程度西偏の測量方法」が用いられたことを示している。この十字の溝について奈文研(1958)p.18は、「礎石上面には舎利孔の周辺に幅一寸、深さ5分の周溝をめぐらし、これより四方に幅2寸の排水溝を出している。これは舎利孔石蓋の周縁にたれる水切りを考慮した施設であろう。」とするだけで、方位のずれについては考察していない。しかし、当然ながら、この塔心礎を漫然と設置しただけでは、この十字の線が示す方位の精度がでないことは言うまでもない。

図3 塔心礎図

【奈文研(1958) PLAN7より】
図4 塔心礎発掘写真

【奈文研(1958) PL29塔より】

     なお塔心礎の軸線は、百済末期の王都・益山の弥勒寺の塔の心礎でも確認できる。弥勒寺は図5のように真北から約18度東偏の寺である。この寺の西塔は2001年から20年を要して解体修理が行われた。その仮定で、図6の写真右下に見えるように、塔心礎には塔(寺)の中軸線に合わせて十字の軸線が墨書されていた。50cm四方の心礎が軸線により正しく四等分されているそうである。飛鳥寺の塔心礎の十字の溝が寺の中軸線に沿っているのも、百済の様式と同じであり、単なる偶然ではないことがわかる。なお塔心礎の写真は、廣瀬覚「山田寺伽藍配置計画の再検討」p.93図6(奈良文化財研究所創立70周年記念論文集5 ,2023)にある。

図5 百済・益山 弥勒寺跡

【Google Map Pro (N36.0117,E127.0305)】
図6 弥勒寺西石塔心礎石 解体作業風景

Koreana Autumn 2009(中国語版)より】

 
3.飛鳥寺で2つの方位測量法が用いられた理由

     飛鳥寺は2つの方位測量法が用いられており、その一つの真北を示す中軸線は、太陽によるインディアンサークル法が用いられたと考えられる。また、飛鳥寺の創建時588年頃には、北斗七星第4星と軫宿の距星でえられる方位は約95分であり、回廊の約1.5度の中軸線の方位は、この方法で測量された可能性が高いと考えられる。
     なお、当時の北極星を用いた方位測量でも唐の長安城と同じ約10分西偏と真北に近い方位をえられるが、もしそうであれば、わざわざ同様の北斗七星を用いた測量を併用する理由がない。

     『日本書紀』によると、崇峻天皇5年(592)10月に「仏堂(金堂)と歩廊の工を起こす。」とあり、中心伽藍と回廊は同時に工事が始まっている。中心伽藍の測量に太陽を用いたのは、昼間に測量をしなければいけない事情があったのだろう。しかし、塔心礎の設置に北斗七星による測量を用いている以上、こちらが標準の測量法だったと考えられる。それは、中心軸からずれる講堂にも北斗七星による測量を用いていることからも言える。

4.まとめ

     飛鳥寺で北斗七星第4星による測量法が用いられていると推定できることから、この測量法は、飛鳥寺建立に派遣された百済の技師から、伝わったと考えられる。飛鳥寺には、真南北の中軸線も測量されてはいるが、用いられた測量法は、舒明朝に始まる天命思想に基づく北極星による正方位測量法ではないと言える。またその真南北の測量法(太陽によるインディアンサークル法)が伝承されることもなかった。

参考文献:奈良文化財研究所 「飛鳥寺発掘調査報告」学報第五冊 (1958初版、1986第5版)


2023/10/21 百済弥勒寺の心礎追記
2023/10/11 内容改訂
2023/10/07 塔心礎写真等追記

2023/10/06 掲載

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