1.はじめに
飛鳥京跡の内郭の中軸線の方位に関しては、どの資料を見ても明記されていない。そこで、今回ようやく奈良県立橿原考古学研究所(2008)『奈良県立橿原考古学研究所調査報告102:飛鳥京跡III』を入手したので、検討してみることにした。
2.飛鳥京跡Ⅲ内郭の中軸線の方位
奈良県立橿原考古学研究所(2008)にも飛鳥京跡の内郭の中軸線の方位を明記している箇所はなかった。しかし、p.80-81に以下の記述があった。
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『内郭の南北線 なお内郭中央区では、南門SB8010と前殿SB7910が検出できたことから、内部の南北中心軸が確定することができた。南門SB8010心はX=-169515.12m、Y=-16497.95m、前殿SB7910心はX=-169489.05m、Y=-16497.90mで、北で東に0度2分振れる。また、従来、内郭の中心軸上に配置されていると考えられてきた内部北区画で検出されているSB6205心は、X=-169356.02m、Y=-16498.89mであり、北で西に約0度20分19秒振れている。前者に比べるとわずかに0度22分の振れでありそれほどの差は認められない。これによってSB6205も内郭の南北中軸線上に配置されていることが確定したと見たい。』奈良県立橿原考古学研究所(2008)p.80-81
なお、奈良県立橿原考古学研究所(2008)p.146表5には、表1にまとめた主要遺構の座標データがある。これらをまとめたのが、図1である。
上記記述には中軸線の方位の記載はない。しかし、図1を見ると、遺構のa点からd点までは、ほぼ方眼の北に沿っている。すなわち赤い線(A)を南北中軸線と考えていることがわかる。したがって、e点が22分外れていようが差は無いとしているようである。
しかし、e点を加えるとなると、a点からe点までの5点で、最良の中心軸を最小二乗法で計算する必要がある。エクセルの結果としては、(B)の近似直線となり、この直線の傾きは方眼座標で32分、真北からは6分を加え38分の西偏となる。したがって、飛鳥京跡Ⅲ内郭の中心軸は真北方向ではなく、真北から約38分の西偏である。
表1 飛鳥京跡Ⅲ内郭 主要遺構座標一覧(内郭中軸線関連遺構のみ)
建物 | X座標 | Y座標 | SB8010との方位 |
a 南門 SB8010 心 | -169515.12 | -16497.95 | |
b 内郭前殿 SB7910 心 | -169489.05 | -16497.90 | N 0° 2'22"E (*1) |
c 南の正殿 SB0301心 | -169442.50 | -16497.84 | N 0° 5'12"E |
d 北の正殿 SB0501 心 | -169403.75 | -16497.96 | N 0° 0'19"W |
e SB6205 心 | -169356.02 | -16498.89 | N 0°20'19"W |
『奈良県立橿原考古学研究所(2008)p.146表5 』より 注 *1:約7分Eの誤り
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図1 飛鳥京跡Ⅲ期内郭の方位
【Goolge Earth Proによる】
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3.飛鳥京跡Ⅲ期内郭中軸線方位の方位線上での確認
北極星HR4893と柳宿の距星を用いて方位を測定した場合、後飛鳥岡本宮が造営された656年には、40.2分の西偏となる。図1の計算値では38.05分なので、約2分の差で合致していることになる。その他の都城の方位等と併せて表示したのが図2の方位線図である。
なお、飛鳥京跡Ⅱ期を後飛鳥岡本宮、飛鳥京跡Ⅲ期を飛鳥浄御原宮とする解釈もあるようだが、この方位線から見ると誤差が増え可能性は低い。またその場合、板蓋宮が正方位ではなくなってしまう。
図2 古代日本の都城の方位と北極星による方位線
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4.まとめ
飛鳥宮(Ⅲ期)の造営方位についても、北極星と距星による測量が行われていたことが確認できた。これで、中国の影響を排除した大津京や仏都である恭仁京/紫香楽京を除き、発掘されたすべての宮都は、『天命思想(北辰統治思想)に基づく北極星による測量法』で造営されていたことが確定した。正方位の宮は、すでに発掘された百済大寺(吉備池廃寺)に併設された舒明天皇の百済大宮に始まり、皇極天皇の板蓋宮を経て難波宮以降に継承されたものと考えられる。
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