日本における大極殿(北辰統治思想)の継承

― 東西軸のエビノコ郭は太陽神の神殿 ―


 

    1.はじめに

     京都の南北に整った街並みは,平安京の条坊を基盤にしている。その測量方法には関心がもたれていたが,その基礎となる思想については深く考えられていなかった。

     妹尾龍彦著『長安の都市計画』(2004)では,正方位の都城である長安城は,天命の所在を具現化し,地上の権力者の正当性を証明する王朝儀礼を挙行する舞台として建設されたとする。ここでは一般の北辰信仰と区別するために,天帝である北辰の天命により皇帝が統治する,支配者階層の思想を,北辰統治思想と呼ぶ。北辰統治思想を具象化する王朝儀礼の舞台を測量する方法が,北極星による正方位測量法である。そして、その王朝儀礼の舞台の中心を占めるのが、太極殿である。

     日本にもこの思想と太極殿などの宮殿の造営法式が,飛鳥時代に伝来していた。そして、それが平安京まで引き継がれ,京都の街が生まれた訳である。


図1 京都の街並み
【Goolge Earth Proによる】

    2.長安城(正方位の都城)の建築過程

     右図は『長安城の都市計画』にある,長安城の造営過程を示した図である。まず,北極星により南北の造営方位を測量する。その測量した子午線に合わせて,中軸線上に宮城が造営される。つぎに南北東西にそれぞれ3本づつの主要大路と,役所である皇城が設けられる。次の段階で街路がもうけられる。そして最後に外郭を囲む城壁が築かれた。
     中国ではこの最後の段階を都城と呼ぶが,日本の都城や宮城には,城壁はない。藤原京は,飛鳥の宮から進化したような印象があるが,実際にはこの造営過程は理解されていて,日本では必要に応じた形式で宮や都城が造営されていた。したがって,宮城,日本でいう宮が,正方位に造営された時点で,北辰統治の思想は伝来していたわけだ。
     630年に造営された,舒明天皇の岡本宮までは,日本の宮は正方位では造営されていない。そこで,このような知識は,遣隋使とともに隋に渡り,長安で二十年以上も学び,632年の第一回遣唐使船などで帰国した,留学生らによりもたらされたと考えられる。


図2 長安城(正方位の都城)の建築過程

    3.長安城(正方位の都城)の太極殿(たいきょくでん)

     長安城の復元図を図3に示す。子午線に合わせた中軸線上に,太極宮,皇城が造営されており,太極宮の中央に,北辰統治の王朝儀礼を行う太極殿がある。後に,太極宮の北東に,大明宮という宮城が造営され,宮殿機能が太極宮から移されていくが,皇帝の即位等の北辰統治の儀礼は,最後まで中軸線上の太極殿で行われた。


図3 唐・長安城復元図

    4.北魏・洛陽城の太極殿(たいきょくでん)

     北魏は493年に洛陽に遷都し,501年に都の南,6kmに,天を祀る円丘を造営した。太極殿の南門からの方位は19.2分の東偏。右の写真は太極殿の北から南の円丘方向をみたもの。円丘は太極殿の真南にある。

     このように太極殿は都城の南北子午線上に築かれている。これは都城が天帝である北極星を基準に南北軸で測量されているので、当然のことである。


図4 北魏・洛陽城 【http://wap.art.ifeng.com/?app=system&controller=artmobile&action=content&contentid=3508069】

    5.日本への太極殿の伝来

     大極殿は日本でも北極星に由来すると考えられている。『日本書紀』では,乙巳の変は板蓋宮の大極殿で起きたとされているが,根拠もなく歴史学者により脚色とされ,大極殿は藤原宮が初めてとされていた。

     しかし発掘により、板蓋宮は正方位の宮とされており、このときすでに、北辰統治の思想が伝来していたことは確かであり、それに併せ、王朝儀礼、太極殿の思想や造営方式も伝来していたと考えられる。さらに,板蓋宮の4年前に正方位で造営されたと推定される百済宮にも,大極殿があったと考えられる。


    6.大極殿の継承

     図5左は前期難波宮の図であるが、その中で大極殿相当とされる内裏前殿(SB1801)は,大極殿そのものだ。また右図は飛鳥浄御原宮の遺構図だ。北の宮殿を宮と呼ぶと,宮は斉明天皇の後飛鳥岡本宮の遺構とほぼ同じである。難波宮と比べればわかるように,大極殿は中軸線上にあるSB7910である。したがって,斉明天皇の後飛鳥岡本宮の時代にも,大極殿はあった。このように,板蓋宮の後も大極殿は継承されていた。


    図5 飛鳥板蓋宮以降の大極殿の継承


    7.エビノコ郭は東西軸の太陽神の神殿

     天武天皇の時代に,宮の南東に西門しか無いエビノコ郭と呼ばれる宮殿が増築された。宮の中軸線上に造営されなかった理由は,宮の南には前庭とよばれる,儀式が行われる大広場があったからだろう。現在ではこのエビノコ郭の宮殿を大極殿とする説が通説となりつつある。しかし,大極殿は北辰統治思想の王朝儀礼を行う舞台なので,宮の南北中軸線上になく,南門もないエビノコ郭は,長安の大明宮のように,北辰統治の儀礼の舞台にはなりえない。したがって、大極殿ではありえない。

     図6をみると、エビノコ郭は真西に向かう飛鳥横道に向いており、明らかに東西軸を意識して造営された宮殿である。したがって、エビノコ郭は北極星を中心とする南北軸の北辰思想とは真逆の、東西軸の太陽神(天照大神)の思想に基づいた宮殿とも考えられる。このような太陽の神殿とも呼べる神殿が、北極星の神殿である大極殿と比定されるのは、日本の考古学者の間では、大極殿の形式のみにこだわり、中国の太極殿と大極殿の関係の考察がされていないからである。


図6 エビノコ郭模型
(東から西方向を写した写真)
【奈良文化財研究所 飛鳥資料館】
エビノコ郭の西門から真西に延びる大路
エビノコ郭が東西軸の神殿であることが分かる。
なお、エビノコ郭の南にある4練の建物は、模型
作成時の想定。現在では無いとされる。したがって
エビノコ郭は単独の東西軸の建物である。    
    8.まとめ

     中国伝来の大極殿を中心とする北辰思想にもとづく王朝儀礼は舒明天皇の時代にはじまって、代々継承されていた。天武・持統天皇は簒奪した王位の正当性を示すために、王朝儀礼に日本古来の太陽神(天照大神)の思想を取り込んだが、エビノコ郭はそれを示す証拠でもあるのだろう。天武天皇の時代に北辰思想(大極殿)の王朝儀礼が始まったわけではなく、逆にその中国伝来の思想を弱くしようとしていたのである。しかし、日本の都城は中国から伝わった、大極殿を中心とする南北軸の北辰思想の都城であるため、東西軸の神殿は整合せず藤原京以降の都城に継承されることはなかった。神殿の規模で北極星の神殿である大極殿と呼ぶことはできないのである。

参考文献
妹尾達彦 「長安の都市計画」 講談社 (2001)


2023/08/19 掲載

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