北京城中軸線の2度西偏の謎を追う

追寻北京城市中轴线西偏2度之谜

モンゴル帝国(元)の都城の方位


 


    1.はじめに

     2000年代に入り、中国の中世からの首都である北京の中軸線が、真北に向いていないことが明らかになった。正確には、真北から約2度10分西に振れていた(西偏)。この事実は1900年代の測量では判明していたが、一般には伏せられていたようだ。右のGoogle Earthの写真でも、皇城の中軸線が若干西に振れているのが分かる。

     その原因については、北西部にある上都を向いている等の説があるが、まだ定説はない。またその検討されている内容も、北京城と上都の2つの都城に限ったもので、その他の関連する元代の都城については記述がなく、検討されていないようである。張 立宇(2015)に経緯と現状がまとまっている。

     ここでは『古代の正方位測量法』の内容をもとに、方位が真北より2度も振れている謎を追う。


図1 北京皇城と中軸線
[Goofle Earth Proによる]
    2.上都の方位

     元上都はモンゴル帝国のクビライが、劉秉忠(りゅうへいちゅう)に命じて1256年に北京の北約270kmのモンゴル高原南部(中国モンゴル自治区)に造営した都である。上都は図2のように正方形の形状で、外城、内城、皇城からなる。Google Earthで各南北線の両端の位置を計測し方位を計算したところ、図に記入した値(全て真北から西偏)となった。これらの平均値は16.1 ±3.9(σ)分西偏となる。分布が真北を中心としないので、造営に用いられた方位測定法はインディアンサークル法のような真北を測る方法ではない。

     隋唐代の北極星であるHR4893を使い1256年で計算すると近い値が、亢宿の定星で30.8分西偏、若しくは婁宿で11.6分東偏となり誤差が10分を超えてしまう。そこで現代の北極星(HR424,αUMi)で計算してみると定星が奎宿で15.8分西偏となり測定値とほぼ同じ値であり、現代の北極星で測定された可能性が高い。城壁の構築方法の違いなどから外城は後に増築されたとされているが、この時期のHR424は天極から遠く歳差による方位の変化は少ない。

     町田吉隆/中尾幸一(2017)p.61は10、11世紀の契丹国の都城では真北とのずれが大きく、この間に方位測定の技術的発展があったと推定している。おそらく、『営造法式』のような北宋の造営技術やイスラム天文学の影響と考えられる。


図2 上都の南北方位(分)
[Goofle Earth Proによる]

図3 上都の南北方位線の偏位
(HR424,αUMiによる)
    3.中都の方位

     元朝武宗により1307年から北京の北西約210kmに造営された元中都もGoogle Earthで計測し図4の結果となった。平均すると真北から157.1分西偏となるが、遺跡は現在整備されており城壁の残る内城以外は信頼性が下るので、内城の平均値154.7分を用いた。北極星による方位計算では、HR4893で定星を心宿とし151.5分がえられる。北極星による方位測定とすると真北から2度以上振れる定星を選んだことになるが、その理由は不明である。


図4 中都の南北方位(分)
[Goofle Earth Proによる]
    4.応昌路城の方位

     1270年頃に上都の北約100kmのダライ・ノール湖畔に建設された方形の応昌路城についてもGoogle Earthで計測し、図5のように、外城の西城壁が152.6分、東城壁が131.1分、平均で141.9分西偏となった。


図5 応昌路城の南北方位(分)
[Goofle Earth Proによる]
    5.大都(北京)の方位

     宇野隆夫(2008)は元朝で大都(1267年造営開始)と呼ばれた明清の北京城の方位の計測を行っている。同p.188-189では西偏2度強が北京城の基本方位とし、現存する元大都の西城壁(1,860m)の方位2°11’44.5” 西偏は明清の北京城の中軸街路(内城正陽門⇒鼓楼)の方位2°11’26.5” 西偏等とよく一致しており、北京城の中軸街や内城の東西城壁の方位は、大都城の方位を踏襲したと見て間違いないであろうとする。さらに、振れが大きいので、天文観測による南北方位設定がなされたとは考えにくいとする。

     他の測定法として磁針を考えると、R.F.Butler (2020) p.8 Fig.1.9の地磁気北極点の年代変動では、1267年頃には西経171°北緯83°前後にある。これをもとに計算すると、この頃の北京における磁針の振れは東偏約5°となり、西偏2.5度は磁針による測定では得られない。地磁気北極点と磁針が指す磁極の北極は一致しないが、日本の実測データを元にした最西端東経120°の推定値でも、偏角は6.8°の東偏である。大都の都城プランも劉秉忠の設計とされる。


図6 大都(北京)の方位(分)
[Goofle Earth Proによる]
    6.西偏の都城の方位のまとめ

     これらの元中都、応昌路城および大都の実測値による方位と、北極星(HR4893)と心宿(σSco)の定星でえられる方位線をまとめたのが図7である。心宿は900年頃に真北となる定星であり、元の時代でえられる方位は真北から2°以上の西偏と振れが大きいが、心宿を定星とする方位線にこれらの都城は沿っている。この時代の測量技術では、大きく離れた都城をほぼ同方位に揃えることは、この北極星による方位測定以外ないであろう。磁針の可能性は先述のように低い。また、元朝には授時暦で代表される高い天文技術があり、中軸線が子午線から2°以上振れていることは認識していたはずであり、故意に中軸線を真北からずらしていたことになる。


図7 中都、応昌路、大都の方位(分)
[図7は、心宿の距星(σSco)が南中したときに、当時の北極星であるHR4893を見た時の真北からの方位のずれを示す。この図より、応昌路城より南にある中都の西偏が大きいのは、測量年代が中都の方が新しいことによることが分かる。]

 

    7.まとめ

     北京の中軸線が2度10分程度振れていることは現在では知られており、約270km離れた副都であった上都を向いているという説もあるが、上都は北京の中軸線より西に方位で約1.5度、東西距離で約7kmもずれている。また図8のように、北京と上都を結ぶ方位線からはずれる位置にある中都や応昌路城の中軸線の方位も同等の振れなので、北京の中軸線が西に約2度ずれている理由にはならない。この説は、上都が偶然その方向にあるだけで、中都の方位を識っていれば発想できない説である。逆にこの説が生き延びていることは、中国の都城の方位の研究がされていないことを示している。
     図9の海日汗(2004) p.36図6は、当時のモンゴル民族が用いた住居であるゲルが、真南より東偏の方位(360°を12等分した時の真南から東に最初のゾーンに戸口を置く)で建てられていたことを示している。これは真北から見れば西偏で建てられていたことになりこの風習が関係していた可能性もある。

    図9 11~16世紀のゲルの方位

図8 元の都城の位置関係とその方位
     中国では、北辰による天命思想により、北極星(北辰)を用いて皇帝の居城の都城中軸線を真北に向けることは唐代で終わっており、元朝では上都を含め北極星や定星の選択に独自性が見える。また、応昌路城のような皇帝が王朝儀礼を行わない地方の都城を真北に向けるのは天命思想でもない。

参考文献
宇野隆夫  「明清北京城の方位と尺度」 日文研叢書 42 p.179-191 (2008)
町田吉隆、中尾幸一「元代応昌城址の復元に関する基礎的考察」 神戸高専研究紀要55 p.57-62 (2017)
張 立宇〈研究ノート〉北京の都城構造における中軸線の歴史地理的考察(2015)
海日汗   「ゲルの方位についての研究」 早稲田大学博士論文(2004)
R.F. Butler 「古地磁気学」 渋谷秀敏訳 電子版ver.2.0.2 (2020)


2023/08/14 掲載

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