中ツ道と条里制


 

1.はじめに

     藤原京が廃絶されたあと、その跡地の大和平野南部にも条里制がしかれ田畑となった。その条里制においては藤原京の条坊路は無視された。藤原京の条坊路の規格は一坊が4町で531m(1町が132.75m)。条里制の規格は一里が6町で約654m(1町が約109m)。

     岸俊男氏は1970年代はじめに3000分の1の地図を使い横大路上で、下ツ道と中ツ道の間隔を測り2127m、中ツ道と上ツ道の間隔が2106mとして、ともに4坊の間隔(2124m)であり、(同時期に)三道の設置が計画されたらしいとした。1970年代はじめにはまだ発掘成果はないが、この想定が現代でも定説として信じられている。しかし、この想定で、条里制の規格を当てはめると、下ツ道と中ツ道の間は3里と1町となり、1町分はみ出ることを岸俊男氏も留意している。

     岸俊男氏が横大路で中ツ道の経路とした場所が三輪神社である。中ツ道は橘街道ともよばれ、図2の案内板にあるように、中世から江戸にかけてもその記録が残っている。しかしこれらの記録は藤原京が廃絶した後の話であり、藤原京の前に建設された中ツ道が、三輪神社を通っていた確証はなにもないことに、誰も疑問を持っていないのは不思議な話である。

     2003年6月に橿原市教委は三輪神社の南で中ツ道の遺構を始めて発掘したと発表した。しかしこの場所は、上記のように藤原京の坊路(東二坊大路)があると想定されている場所であり、道の跡があったとしても、それは藤原京の坊路であり、中ツ道である確証はなにもない。
     この遺構を中ツ道ではないと主張した井上和人氏の『発掘「中ツ道」説批判』も、横大路以南だから中ツ道ではないとするだけで、三輪神社まで中ツ道があったことは認めている。

図1 三輪神社

(鳥居の左が御神木のけやきの木)
図2 横大路と三輪神社の案内板

 


2.「中ツ道の遺存地割」と実際の中ツ道

     図3は井上和人氏の『発掘「中ツ道」説批判』の図86に加筆した図である。条理制の四里の線を赤の点線で示した。この図を見ると、北部では四里の脇に遺存地割があるが、中部では約1町分東に離れた場所に遺存地割りがある。先に述べた横大路での条里制での1町の違いがこれである。

     図3を見ると、この1町の違いはオレンジの丸の部分で発生していることがわかる。このことを発見した井上和人氏は『発掘「中ツ道」説批判』(2004) p.68で「中ツ道の地割は、横大路以北では、現存する水田地割や道路として断続的に確認することができ、平城京左京四坊の南辺に至るまで続いているが、従来いわれている、中ツ道造営方位が下ツ道に比べると北で大きく西に振れていることの大きな原因は、横大路の北方およそ1.8 kmの地点で、北北西流する旧河川を効率よく横断するために道路を急角度で屈曲させていることにあること、また遺存地割の分析を通じて、中ツ道の幅は28.5mほどと推定できることなどを指摘した。」と説明している。
     つまり、この部分に中ツ道建設時には河がありそれを効率よく横断するために道が西にそれたとしているわけである。

     しかし、下ツ道や難波大道なども河川を横断しているが、道を迂回させている箇所はない。たとえ河があったとしてもクランクさせる必要はない。さらに、この場所は図3のように、横大路より北に1.8kmの場所ではあるが、藤原京の北端を加筆したように、この場所は藤原京を出てからわずか数十メートル北の場所である。遺存地割を見ても、後から造営された藤原京の坊路との差約100mを調整する接続路と考えるのが自然である。また条里制の四里が、藤原京の坊路に関係なく真南に引かれているのも、地形的には障害がなかった証拠と思われる。

図3 中ツ道の遺存地割と横大路

【井上和人氏の『発掘「中ツ道」説批判』図86に加筆】
     なお、発掘地点や神社などを結んだ、中ツ道実経路の想定線はこの赤い四里の点線と重なっていて、香久山の頂上に至る。この四里の線は香久山を越えて飛鳥にも続いている。したがって条里制ではもともと、下ツ道と中ツ道の間を3里(18町)に分けたていたことになる。それを、南の藤原京の跡地にもそのまま延伸していた。

     したがって、1町東にある遺存地割は、藤原京の条坊路であり、その後の橘街道跡でもある。藤原京造営前の中ツ道は藤原京造営時に廃絶されたので、これを中ツ道の遺存地割とみる根拠はない。同様に太子道(筋違道)の痕跡も藤原京では発見されていない。
     

3.藤原京大路への接続路
図4 クランク部分の入り口(北から)
図5 クランク部分の途中


  4.中ツ道と条里制

     中ツ道の方位は、藤原京の出口から平城京の入り口まで真北から約1°の西偏である。そのため、中ツ道の条里制への影響はあまり考慮されていない。しかし、藤原京や平城京への接続路を除く直線部の方位は真北から約32.7分である。

     木全敬蔵(1987)p.108(*)には地割の南北方位の表がある。図6はそれを図示したもの。値は直角座標に真北からの振れの変換分である6.2分を加えてある。1里目初めが下ツ道、4里目が中ツ道、7里2町目が上ツ道にあたる。この図から4里(中ツ道)付近から東の方位は、ほぼ4里(中ツ道)の方位に依存していることが分かる。

 

図6 条里制の地割の南北方位

【木全敬蔵(1987)p.108のデータより】
     中ツ道の実方位との差は、平城京坊路への接続路である「京道地割」による偏位の増加分(約7分= 30m/15km)と考えられる。図6より下ツ道と中ツ道の間は振れが直線的に増加しているので、間隔を等分した可能性が高い。また、下ツ道から東では、「京道地割」を通る、平城京時代の中ツ道がほぼ条里制の基準となっているようである。

    *「奈良県市4・条里制」(1987)


  5.まとめ

     中ツ道は三輪神社を通っていたとする考えの影響が大きく、これまで正確な経路の復元がされてこなかった。また方位が1°に近いことも、古代の工事施工の精度の低さと解されてきた。しかしそれは、中ツ道より後の時代に造営された、藤原京と平城京との接続路を含めていたからであった。これを除くと、下ツ道より8分程度傾きが大きい直線道が見えてくる。条里制もこの直線の中ツ道に沿って施工されていた。
     「大和の三古道が同間隔で同時期に建設されていた」という、古道が発掘もされていない半世紀も前の想定にいまだに振り回されているが、早く発掘成果にに基づく解釈に着目してほしいものだ。 なお、中ツ道の方位については、「中ツ道の造営方位の検証」を参照。



2023/10/22 掲載

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