3.中国の考古学者の日本の大極殿に関する見解
中国社会科学院考古研究所の王仲殊著「唐長安城および洛陽城と東アジアの都城」に日本の大極殿に関する見解があったので紹介する。
p.413『唐長安城の宮城は「太極宮」、その正殿が「太極殿」と呼ばれていた。これは当時における日本の都の宮城内に置かれた正殿としての「大極殿」の名称の由来である。660年代、唐の皇帝が太極宮から新しい大明宮に移り住んだため、大明宮が太極宮に取って代わって長安の政治の中核となった。大明宮の正殿は「含元殿」と称され、その特徴として、高い基壇の両側に「竜尾道」と呼ばれる階段が設けられていた。日本の平城京および平安京の宮城内の正殿である大極殿も高い「竜尾壇」あるいは「竜尾道」という基壇の上に建てられていた。これは疑いなく唐の長安の大明宮含元殿の形をまねて造ったことになる。しかし、日本の宮城の正殿は「含元殿」ではなく、ずっと「大極殿」と呼ばれていた。要するに、「大極殿」という名称の採用は660年代よりも以前だったはずである。660年代以降、唐の長安城において、大明宮及びその正殿である含元殿が新たな最重要宮殿となったが、この時点では日本の「大極殿」の命名はすでに行われていたため、この名称が日本の宮殿制度の伝統としてその後もずっと受け継がれたのである。
周知のように、犬上御田鍬を大使とする第一回の遣唐使は貞観五年(631年)に唐王朝の京師長安を訪問し、唐の太宗に謁見したが、謁見は必ず太極宮の太極殿で行われた。これこそ日本の宮城内の正殿を「大極殿」と名づけた最も重要かつ直接的な理由であろう。『日本書紀』に「大極殿」という名称が初めて現れるのは皇極天皇四年(645年)の記載の中である。当時、日本はまだ正規な都城を有していなかったが、天皇の住まいである飛鳥の板蓋宮は国の政治的中枢としての役割を果たしていた。『日本書紀』の中で、この板蓋宮については「十二の通門あり」云々のやや誇張しこじつけたような表現もあるが、正殿を「大極殿」と称したという記載には、それなりの信憑性があると思われる。』
王仲殊氏も、大極殿の思想は第一回の遣唐使で伝来したと推定しているわけである。なおこの論文は千田稔編「東アジアの都市形態と文明史」国際シンポジウム ; 第21集, 国際日本文化研究センター(2004)に掲載されている。
そもそも唐・新羅連合軍による百済滅亡(660)から遣唐使再開(702)までの日唐関係は最悪の時期で「不通」だった。逆に天武天皇は新羅との関係を重視していた。たとえば、続日本紀に、則天武后の即位(684)により国名が周に替わっていたことを、遣唐使(702)により知ったと記載している。これほど唐の情報は入っていなかった。普通に考えて、このような時代に、敵国である唐の太極殿のような王朝儀礼の情報を入手し、それを日本の宮に導入することはできない。天皇号についても同様である。これらは、すでに第一回の遣唐使の舒明天皇の時代に導入されていたのである。