定之方中 (『詩経』)

春秋時代の北極星による方位測量


 

    1.はじめに

     北極星を用いた方位測量の方法は、宋代の『営造法式』の『取正』にその詳細が記録され、残されていた。『営造法式』は北宋の哲宗(在位:1085-1100)のとき,李誡(李明仲)が勅を奉じて編纂し,1103年に刊行された官庁による最古の建築書である。

     『営造法式』では詩経の記述などの古来の文献を引用し、宋代の現在でも同じ方法が使われているとしている。

       『今來凡有興造,既以水平定地平面,然後立表測景,望星,以正四方。正與經傳相合。
      訳:現在に至るまで一般に建築を行うときには,まず水準で地平面を平らに定め,次に表(ノーモン)を立てその影を測り,(極)星を望み,四方を正しく定める。正に經傅と相合う。

     その古来の文献のなかで最初にあげられているのが、詩経にある『定之方中』である。『営造法式』の取正の和訳については、当方の論文等を参照のこと。


図1 営造法式(『取正』)
【東北大学附属図書館蔵,和算資料,藤原集書743】

    2.定之方中(『詩経』)

     『営造法式』にある、『詩経』の部分と訳は次のようになる。

      取正:①詩。定之方中。又揆之以日。注云。定,營室也。方中,昬正四方也。揆,度也。度日出日入,以知東西。南視定,北準極,以正南北。
      訳:方位の取り方:①『詩(経)』にいう,定星が南中するとき,(楚の岡に宮を作る)。又日影を測って方位をさだめ,(楚の岡に宮を作る)。注(『毛享傳』)に云う,定(星)は營室(室宿)の距星である。方中は夕暮れに四方の方位を正しく定めることである。揆は測(度)ることである。日の出と日の入りを測り,東西の方位を知る。南の定(星)を視て,北の極(星)を基準にして,南北の方位を正しく定める。

     訳については,目加田 誠(1991)p.63-65も参照し補った。この詩は斉の桓公が衛の文公を助け楚丘(現在の河南省滑県の東)に遷都させたことにちなむ。『春秋左氏伝』(竹内照夫(1972)p.62)に僖公2年(BC658)「衛を楚丘に立てた」とある。

     注では定を室宿[αPeg]とし、昏に四方を正するので、この文は古来、前年の秋の昏に室宿が南中した時と解釈されている。しかし、後半には「南の定(星)を視て、北の極(星)を基準にして、南北を正す」とあるので、『定之方中』は、訳文のように、定星の南中を視て,北の極星を基準にして,南北の方位を測ると解釈できる。
     ではなぜ「方中」に「昬正四方也」の注をつけたのか? これは、定星を「室宿」としたため、測量したと考えた前年秋には昬に南中するので、秋の宵に方位を決めたと推定したのだろう。「方中」だけとれば、ある方向の中心としか読めず、「昬」という時間帯まで入れ込むのは無理がある。

     したがって、詩経の本文は、以下の内容となる。

      定之方中,作于楚宫。揆之以日,作于楚室。
      訳:定星が南中するとき,(極星で方位をさだめ、)楚の丘に宮を作る。又日影を測って(方位をさだめ),楚の丘に宮を作る。

     またこれは、『営造法式』の次の古伝の引用にある『(周礼)考工記』と内容は同じことになる。

      識日出之景與日入之景。夜考之極星,以正朝夕。
      訳:日の出の影と日の入り影をしるす (東西をきめる)。夜は極星(北極星)を観測し(南北の方位を定め),その結果をもって朝夕(東西)を正す。

     さらに『平城京造営の詔』にある『揆日瞻星,起宮室之基』(日をはかり(極)星を見て(方位を確かめ),宮室の基を起こす。)と同じである。このように、この北極星を用いた方位測量方法は日本にも伝来していた。


    3.『晏子春秋』の記録

     また春秋時代の書『晏子春秋』にも次の記述がある。

      古之立国者、南望南斗、北戴樞星、彼安有朝夕哉
      訳:古くに国を立てる者、 南に南斗(斗宿)を望み、北に樞星(極星)を戴き、それにより東西を安んずる。

     この文献も、『詩経』と同じように南天の星宿である斗宿を望みとあり、また極星の測定[南北]により東西を修正するとある。なお、『晏子春秋』は、春秋時代の斉の名臣晏嬰の言行をまとめた記録。戦国時代末から漢代にかけての書とされる。晏嬰は斉の霊公(BC582-554)・荘公(550-548)・景公(?-490)の三王に仕えた政治家。


    4.春秋時代の定星の検証

     以上により春秋時代にすでに北極星を用いた方位測定を行っていたことが分かる。その時に用いられた定星は、「『詩経』の注」により「室宿」、『晏子春秋』より「斗宿」の2つの星宿となる。春秋時代の北極星をHR4927として、それぞれの星宿が南中した時の方位は以下の図2のようになる。図2によると、「室宿」は趙王城の方位にも残されており、春秋時代後半から戦国、秦までの定星であったことがわかる。また、「斗宿」は春秋時代前半の定星である。

     また、『詩経』の楚丘の都城が造営された時代(BC658)を見ると、「斗宿」は数分の偏位であるが、「室宿」では最悪に近い偏位となっている。したがって『詩経』の楚丘の都城が造営に用いられた定星は注にある「室宿」ではなく、「斗宿」の可能性が高いことになる。ただし、測量したのが前年秋であれば、「斗宿」の南中は真昼になるので、180度反対の「井宿」を使ったことになる。 『詩経』の注を付けた毛享が定星を「室宿」としたのは、彼の時代(秦)の定星が「室宿」であり、古い春秋時代からそうであったことを知っていたからだろう。
     図2を見ると、孔子の時代の-500年頃には、室宿での方位が真北に近く、斗宿での方位は1度を超えようとしている。したがって、定星は-500年代のなかばには室宿に替わっていたと考えられる。


    図2 北極星(HR4927)と星宿距星にようる方位線と遺構の方位


参考文献
竹内照夫 「春秋左氏伝」 平凡社 (1972)
田中 淡 「『營造法式』自序看詳總釋部分校補譯注(上)」 東方學報72 p.771-813 (2000)
目加田誠 「詩経」 講談社学術文庫953 講談社 (1991)
李誡(宋) 「石印宋李明仲営造法式」 東北大学附属図書館蔵 藤原集書743



2023/10/05 最終行を追記。 2023/08/15 掲載

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