2.定之方中(『詩経』)
『営造法式』にある、『詩経』の部分と訳は次のようになる。
『取正:①詩。定之方中。又揆之以日。注云。定,營室也。方中,昬正四方也。揆,度也。度日出日入,以知東西。南視定,北準極,以正南北。』
訳:方位の取り方:①『詩(経)』にいう,定星が南中するとき,(楚の岡に宮を作る)。又日影を測って方位をさだめ,(楚の岡に宮を作る)。注(『毛享傳』)に云う,定(星)は營室(室宿)の距星である。方中は夕暮れに四方の方位を正しく定めることである。揆は測(度)ることである。日の出と日の入りを測り,東西の方位を知る。南の定(星)を視て,北の極(星)を基準にして,南北の方位を正しく定める。
訳については,目加田 誠(1991)p.63-65も参照し補った。この詩は斉の桓公が衛の文公を助け楚丘(現在の河南省滑県の東)に遷都させたことにちなむ。『春秋左氏伝』(竹内照夫(1972)p.62)に僖公2年(BC658)「衛を楚丘に立てた」とある。
注では定を室宿[αPeg]とし、昏に四方を正するので、この文は古来、前年の秋の昏に室宿が南中した時と解釈されている。しかし、後半には「南の定(星)を視て、北の極(星)を基準にして、南北を正す」とあるので、『定之方中』は、訳文のように、定星の南中を視て,北の極星を基準にして,南北の方位を測ると解釈できる。
ではなぜ「方中」に「昬正四方也」の注をつけたのか? これは、定星を「室宿」としたため、測量したと考えた前年秋には昬に南中するので、秋の宵に方位を決めたと推定したのだろう。「方中」だけとれば、ある方向の中心としか読めず、「昬」という時間帯まで入れ込むのは無理がある。
したがって、詩経の本文は、以下の内容となる。
『定之方中,作于楚宫。揆之以日,作于楚室。』
訳:定星が南中するとき,(極星で方位をさだめ、)楚の丘に宮を作る。又日影を測って(方位をさだめ),楚の丘に宮を作る。
またこれは、『営造法式』の次の古伝の引用にある『(周礼)考工記』と内容は同じことになる。
『識日出之景與日入之景。夜考之極星,以正朝夕。』
訳:日の出の影と日の入り影をしるす (東西をきめる)。夜は極星(北極星)を観測し(南北の方位を定め),その結果をもって朝夕(東西)を正す。
さらに『平城京造営の詔』にある『揆日瞻星,起宮室之基』(日をはかり(極)星を見て(方位を確かめ),宮室の基を起こす。)と同じである。このように、この北極星を用いた方位測量方法は日本にも伝来していた。