蘇我氏はなぜ「舒明天皇の天命思想の受容」を容認したのか


 

    1.はじめに

     舒明天皇は即位ののち、すぐに最初の遣唐使の派遣を決めた。遣唐使船によりもたらされた知識に基づき、大王を神聖化する天命思想である北辰統治の思想や、それに関連する基盤技術を導入し、正方位の宮(百済宮,未発見)の中軸線上に大極殿を建設し、天皇の正統性をしめす、天命思想に基づく王朝儀礼を行ったと考えられる。この舒明天皇が進めた、天命思想による王権の強化は、蘇我氏が実権を握っていた時代に導入されたことになる。なぜ蘇我氏はそれを容認したのだろうか?

    2.天命思想と易姓革命

     「天命思想」は「天に認められた天子が世を治める」という思想であるが、それは中国においては、王朝交代にさいして、「元の王朝が天から見放されたために次の姓の違う王朝に代わるという易姓革命」の裏付けになる思想でもあった。したがって、天命思想の受容は天皇の王権を強化することになる反面、意識するしないにかかわらず、天皇の家系ではない王朝への交代の可能性も受容したことになる。これが、蘇我氏が「天命思想」による王権強化を容認した大きな理由だろう。舒明天皇が中国の「皇帝」に対応する「天皇」と称したのも、蘇我氏による「易姓革命」には有利となった。
     『日本書紀』の乙巳の変のまでの記事には、蘇我氏がそれを目指していたこと、若しくは、それを天皇家側が恐れていたことを推定させる記事が見える。「天命思想」の導入(受容)を考えれば、『日本書紀』に載るストーリイ(易姓革命阻止)もあながち脚色とは言えない。実際、舒明天皇が「天命思想」を受容し蘇我氏が「易姓革命」という大義名分を得てから、「乙巳の変」までわずか10年余りしかないのだから。

    3.日本における「天命思想」から「易姓革命」の切り離し

     劉権敏『日本古代における天命思想の受容 : 祥瑞思想の和風化』(哲学・思想論叢 24 p.83-95, 2006)p.94は、「天武・持統朝には、(中略)、「天命」のしるしとして看倣される瑞祥を下す主体が「天」から「天つ神・国つ神」へと置き換えられ、和風化されることによって、天命思想は万世一系の思想とともに共存できると考えられるようになった。」とする。(なお同論文は『日本書紀』の記述から、天命思想の移入期を欽明朝以前としている。)これにより、天命思想による易姓革命の可能性を消したわけだ。天孫降臨神話にあるように、天皇家の祖先が天から降臨して世をおさめたのであるから、他の家系はこれに代わることはできないというロジックで、「易姓革命」を封印した。例えば、天命思想の中心である北辰(北極星)は、『古事記』筆頭の「天之御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)という日本の天つ神の祖とされた。


2024/02/26 追記
2024/02/23 掲載

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