以下の文は誠文堂新光社「天文フリーソフトウエア集2」 (1996)に載せた文に加筆したものです。
なお日食月食計算ソフトEmap/Lmapの計算結果は1996年当時に考慮したΔTに基づくものです。
メソポタミアの歴史が分かってきたのは1857年の楔形文字の解読以降のことである。それまで古代メソポタミアの情報はギリシャやローマの古文書や旧約聖書に頼るしか無かったが、メソポタミア文明の解明は楔形文字の解読により飛躍的に進んだ。アッシリアの首都ニネベにあったアッシュルバニパル王の図書館やその他の都市から出土した粘土版(タブレット)に刻まれた楔形文字の解読により明らかにされた内容は天文の歴史を塗り替えるものであった。ここではメソポタミアの天文の歴史に沿って日食/月食の記録を紹介する。
メソポタミアではシュメール人がBC2700年頃初期王朝を開いたが、紀元前25世紀頃のタブレットには月の満ち欠けをもとにした太陰暦の日付が現れ始める。その暦では新月後の最初の細長い月が太陽の沈んだ西空に見えた時を月の初めとしていた。太陰暦の12ヶ月は354日あまりで季節とのずれを調整する為に3年に1回程度の閏月を入れる必要がある。この暦編纂の為神官がおこなっていたと思われる観測が後のメソポタミアの天文学の基礎になったと考えられるが天文に関する記録はまだ出土していない。星座名等もこの頃書かれたタブレットからはまだ見つかっていない。
シュメールの初期王朝はBC2370年頃アッカド人に攻撃され終わる。シュメールはウル・ナンム王の時代ウル第三王朝として復興するが、BC2006年頃侵入してきたアモリ人により滅ぼされ、シュメールの時代は完全に終わる。
BC1900年頃に初まる古代バビロニアの時代になると天文の記録が現れる。その中の一つが古代バビロニア王朝アミサドュカ王の時代に21年間(BC1702〜1681)の金星の出没を記録した「アミサドュカ王の金星タブレット」と呼ばれるタブレットである。これは「エヌマ・アヌ・エンリル」と呼ばれる紀元前11世紀頃にまとめられた天文占文集の63番目のタブレットにあたる。
この占文集の15〜22番目のタブレットには月食に関する占文が集められているが、次の占文はその中で15番目のタブレットの最初の占文である。
天文占文はまず天文現象が初めに記録され、それによって国や王族に予想される出来事が綴られている。「エヌマ・アヌ・エンリル」は長い年月をかけて天文現象と出来事の記録から関連を見い出し宝典化したもので、その後も追加修正されて後の時代まで天文占いの宝典として使われた。次の「預言者のマニュアル」と呼ばれるタブレットから天文占文の考え方が分かる。
バビロニアの新年は新年祭で始まったがそこで読まれた「エヌマ・エリシュ」の第5のタブレットには次の祈祷文がある。
古代バビロニアの天文の文化は周辺の諸国に広り、トルコ中部に建国したヒッタイトの都ハットゥサス(BC1650-BC1200年頃)からも「エヌマ・アヌ・エンリル」と同様の月食の占文タブレットが見つかっている。
BC1450からBC1200年頃現在のシリア地中海沿岸地方に栄えた都市国家ウガリット(現名ラス・シャムラ)からはつぎの日食に関する占文が出土している。
ステファンソン(F.R. Stephenson) はBC1450からBC1200年の間に起きた日食を検討し、この日食をBC1375年5月3日の日食と特定している。しかし、この日の日食は日の出直後で火星も太陽のそばに無いので記録されている状況とは違いがある様である。また、ジョン(T. de Jong)等はBC1223年3月5日の日食をこのときの日食と特定している。この日の日食は午後1時頃に起き、そばに火星もある為記録されている状況に近い。
初め 食甚 終わり 皆既時間(分)
アッシリアはチグリス川の上流で古くから勢力を保っていたが、BC8世紀頃より急速に領土を拡大した。エサルハドン王(BC680-669)からアッシュルバニパル王(BC668-627)の時代には王は各地に占星術師を派遣し頻繁に天変の報告を集めている。各地に占星術師を派遣した理由はアッシリアの都ニネベが曇っている場合でも天象をどこかで観測できるからである。 例えば、BC678年5月22日の月食についての占文が出土している。 「シマンの月はエラム、その決定はウルに下された。14日の悪魔、14日はエラムと言われている。何処から始まったか分からない。大きな月食が南と西に動いて行った。エラムとアムルーに凶。東と北から晴れはじめた、スバーツとアッカドに吉。月食は全ての部分を隠した、それはこの前兆が全ての国に属することを意味する。」 このように月食での占いは地球の影が月を横切る方向及び影が隠す月の部分により凶の地域が占われた。その意味づけは次の占文にも読まれている。影が隠す部分については「月の右の部分がアッカド、月の左の部分がエラム、月の上部がアムルー、月の下の部分がスバーツ」。月を横切る方向については、「南がエラム、北がアッカド、東がスバーツ、西がアムルー」。アッカドはバビロン、スバーツはアッシリア、アムルーはウガリットの辺り、エラムは後のペルシャの都スーサの辺りである。 アッシリアに凶の月食が起きることが判明すれば全ての汚れを払うため身代わりの王が立てられた。その王は神官の息子などから選ばれ百日間の務めを追えた後殺され一切の汚れと共に丁重に葬られた。またアッシリアとバビロン両国に凶である月食のときにはアッシリアで50日、バビロニアで50日の王位についた。 この時代すでに月食の予想はある程度できていたようで次の様な占文が残っている。 「14日、月食がある。エラムと西方の地には凶、王には吉、王に祝福あれ。金星が見えはじめた頃すでに私は王に「月食がある」と言ってましたね。老いたラジルより、王の僕。」(BC667年10月15日の月食。) しかし、日食の予想は困難で日食が有るか無いかの王の詰問に「日食の予想は月食の予想のようにはいかない」と返答しているタブレットも残っている。このころまだサロス周期は見つかっていないようであるが、観測の結果の集積のなかからある程度規則性を見つけ予測を行っていたようである。 この頃の王への報告に記録されている日食・月食は以下の通り。但し、時間食分の計算はEMAP、LMAPによる。
初め 食甚 終わり 最大食分
()* :月の出や入りの時間 この中で特にBC671年7月2日の月食はエジプトの征服を予兆した月食言われ、BC671年7月11日にアッシリア軍はエジプトのメンフィスを占領した。 BC8世紀頃より天文日記(Astronomical Diaries)と呼ばれる観測記録がつけられている。それは月、惑星、冬至、夏至、シリウスの現象、流星、彗星、天候、穀物の値段、川の水位、歴史的出来事などを一月単位で日付毎に書き並べたものである。現在残されている最古の日記はBC652年のものである。また最後のものはBC165年である。 プトレマイオスはその著書「アルマゲスト」にナボナザール王(BC747-734)時代以降の観測の記録が残されていることを書いている。また次の月食を「アルマゲスト」のなかで実際に取り上げている。このなかで前半の記録はバビロニアからのデータであるが、もしこれらのデータがなければプトレマイオスにしても計算による食の予測を精確に行う事は不可能であった。また18世紀後半に始まった天文年代学においても「アルマゲスト」により伝えられたこのデータが軌道要素を決定するのに重要な要素であった。
「アルマゲスト」に記載の古代月食
紀元前8世紀頃になると「ムル・アピン」とよばれる星表も現れる。これは先の「アストラローブ」につながるものである。ちなみにこの星表でもまだゾディアック(黄道12宮)の考えは始まっていない。
BC11世紀よりメソポタミアへ侵入したカルディア人はBC626年に新バビロニア王朝(カルディア王国)を起こしBC612年にはアッシリアのニネベを陥落させた。しかしカルディア王国は長くは続かず539年にはペルシャの攻撃で滅亡し、その後のメソポタミアはペルシャの支配となった。 これまでメソポタミアで使われた星表では赤道を基準にした星座体系であったが、BC5世紀頃より月や惑星の計算結果を表す為に黄道12宮を使用した表記が現れ、BC410年と推定される初めて個人の運命を占った占星術のタブレットも見つかっている。最古の黄道12宮サインの使用例は楔形タブレットVAT4924(BC419)である。(注)(2018/06/30追記) 暦の技術も進歩し、BC529からBC503年にかけて8年に閏年を3回入れる方法が確立し、BC5世紀の中葉にはより正確な19年に7回の閏年を入れる方法が確立したとみられている。
天文関連のタブレットの中には「食テーブル」とよばれるこの頃の日食や月食の日付や起きた位置等をリストにしたものがある。現在見つかっているものは、BC475からBC457年までの日食のリスト。また月食についてもBC417からBC381迄の月食のリストやBC175からBC152迄の月食のリストが見つかっている。このような状況からこの時期にメソポタミアの数理天文学の基礎が築かれたことが推定されている。
BC331年のアレキサンダーのメソポタミア征服でメソポタミアはギリシャの勢力範囲に入る。BC323年のアレキサンダーのバビロンでの死後副官セレウコスの王朝(BC306より)になると数理天文が急速な発展を遂げる。メソポタミアの天文学というとすぐに紀元前3千年といわれがちであるが実際に精密天文学発達したのはこの時代である。この時代の精密天文計算ついてはO.ノイゲバウアーの「古代の数理天文学の歴史」が詳しい。
ギリシャの数理天文学の分野にBC2世紀頃ヒッパルコスが現れる。彼は小アジア地方のニケアに生まれ後にロードスに渡った。彼は観測により理論を進めたが、星表を作り歳差を発見したことで特に有名である。O.ノイゲバウアー等はメソポタミアの天文計算で使用された月の天文定数とヒッパルコスの使用した天文定数が同じである事を解明している。またヒッパルコスは600年間の日食月食を予測出来たと言われているがこれもメソポタミアの観測記録を持っていた為と思われている。この時期メソポタミアの数理天文学の知識がギリシャへ伝わっていたことがわかる。
プトレマイオスはヒッパルコス等の研究成果に独自の観測結果によりさらに改良を加えAD2世紀のなかばアレキサンドリアにて「アルマゲスト」を書いた。
これによりAD2世紀でも「アルマゲスト」を使えば現代の計算と遜色のない結果が得られていたことがわかる。 ギリシャ文化の衰退を受け「アルマゲスト」はイスラム文化圏に渡り遅くとも9世紀頃にはアラビア語訳されアラビアの天文学の基礎となった。また、12世紀以後はキリスト教文化圏の古典回帰運動により幾度もラテン語訳されコペルニクスの天文学へとつながっている。
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