「渋川春海と七政四余」の発表について

ー 渋川春海の師である岡野井玄貞が螺山から学んだのは占星術 ー



 2020年4月発行の日本数学史学会の会誌「数学史研究」の235号(2019年12月~2020年3月号)にて以下の研究ノートを発表しました。

【題名】 渋川春海と七政四余
【概要】
 渋川春海の伝記である『春海先生実記』に,「朝鮮通信使の螺山が江戸に来たときに,(春海の先生となる)岡野井玄貞が螺山に面会し,七政四余の運行を質問しその奥秘を得たと。」の記述がある。この七政四余は占星術である。(Googleでの検索:七政四余)
 しかし,占星術である七政四余が,天文学史関係の書籍では暦法や授時暦と誤って解釈され,春海はそれを玄貞から学びそれが貞享暦につながったとする飛躍した解釈が通説として説明されている。またそれら説明には「七政四余」の記述もないものが多く,まったく論拠のない説である。最近では「七政」の名前から,李氏朝鮮で大統暦を修正して編纂された『七政算内篇』や『七政算外篇』を螺山が玄貞に教えた暦法とする学説まで出てきてしまっている。春海関係の文書に『七政算』という文言は一切ない。明末から清の時代には,『回回暦法書』の名称が『七政推歩』とされたように,中国やその影響下の朝鮮では「七曜」を「七政」と表記するのは一般的だった。また,四余(実体の無い天体)の計算法は授時暦には無いので,授時暦ではないことも明白。四余の用途は占星術しか無い。
 研究ノートではこの暦法とする誤った解釈を正し,春海が玄貞から習った七政四余は占星術である証拠を示した。

【問題のある記述例】(研究ノートには含まず。)

    吉田光邦著「日本科学史」講談社学術文庫 776(1987)p.236-237
    「やがて寛永20年(1643)に朝鮮の容螺山が来朝して京都の人岡野井玄貞はこれに授時暦を学んだ。授時暦は(中略)。この授時暦を研究してこれに基づいて新しい暦を立てたのが渋川春海(保井,又は安井とも称す)であった。春海は岡野井玄貞について授時暦法を学び万治二年(1659)にはこれに基づいて各地の緯度を測定した。(略)」

    「岡野井玄貞」朝日日本歴史人物事典(1994)
    「生年:生没年不詳 江戸前期の医者,暦算家。京都の人。寛永20(1643)年7月,朝鮮の通信使が来日したとき,江戸におもむいて,正使,副使に次ぐナンバー3の儒者としてきた螺山に面会を求め,暦法,特に中国の伝統的暦法の最高傑作である元の授時暦について根掘り葉掘り聞きただした。螺山,玄貞ともに大した人物でもなかったが,当時李朝の科学技術の水準は明代の中国をも抜くものがあり,一方日本の知的水準は低かったので,玄貞を介して授時暦が伝わるルートができた。玄貞の弟子に初代天文方となった渋川春海があり,授時暦を真似して,邦人の手による最初の改暦が貞享年間(1684~88)に成立した。(中山茂)」

    「読祝官朴安期(螺山)五言律詩」静岡市さきがけミュージアム
    「*朴安期(1608-?)・・号は螺山,本貫は密陽。仁祖癸未年(1643年)に読祝官として派遣された。通信使一行が江戸に滞在する間,京都の天文学者・岡野井玄貞が朴安期を訪ねて七政算などの暦法を学び,その弟子の渋川春海がこれを基に日本最初の暦法である貞享暦を完成させたといわれる。」

    安大玉著「朝鮮の暦」暦の大辞典(2014)p.266
    「日本最初の独自の暦法である貞享暦を生み出した渋川春海の師,岡野井玄貞に,朝鮮通信使の朴安期が授時暦を教えることができたのも,こういった朝鮮世宗時代の暦法上のレベルアップが背景にあったということができる。」

    神田泰著「日本暦の誕生」暦の大辞典(2014)p.297
    「授時暦を京都の医者,岡野井玄貞から学んだ。玄貞には他の業績について記録は残っていないが,授時暦の研究家として,寛永20年(1963年)に来日した朝鮮通信使一行の序列第四位相当の読祝官・朴安期(容螺山)が江戸に滞在中,10日間にわたって授時暦法などを学んだという。しかし,実際には授時暦を研究発展させた『七政算内篇』,および『七政算外篇』などについて学んだもようである。」

【春海先生実記の該当箇所原文及び訳】

     この記述には玄貞が螺山にならったのは「七政四余」というだけで,暦法や授時暦という言葉は一切ない。「七政四余」という単語から推察しているに過ぎない。

    『茲有岡野井玄貞者,素以医業達台聴。又粺天文暦術之学。我朝,元亨(1321-23)以来,曽獏考七政四余之人。寛永癸未年(1643)朝鮮客螺山者来,玄貞相見,討問七政四余之運行。而畧得其秘奥。惟恨,螺山在東武(江戸)纔一旬,而帰国,依玄貞起志励気,自勤学是術。有年先生聞之,謁見請,而為師随而学之。』 『春海先生実記』

    『茲(ここ)に岡野井玄貞というものあり,素(もと)より医業によって貴人の耳にも入っていた。又,天文暦術も学び粺(くわ)しかった。日本では元亨年間(1321-23)の頃以来,七政四余を考える人は無かった。寛永二十年(1643)に朝鮮の客螺山が来日した時に玄貞は面会し,七政四余の運行をたずた。そして,おおむねその奥秘を得た。ただ恨めしいことに螺山は江戸に滞在することわずかに10日で帰国してしまった。玄貞はその後奮起して自分でその術を学んだ。後年,先生(春海)はこれを聞いて,謁見を請い,師としてついて之を学んだ。』

     ここにあるように,岡野井玄貞は螺山に面会する前に,すでに天文暦術を学び詳しかった。螺山から授時暦のような暦法を学んだのであれば「其秘奥」と書かずに,「授時暦」のような暦法名を書けばよいだけで暦法名をあげない理由はない。ここで暦法名を書かなかったのは「七政四余」と明確に書いているからである。

【春海先生実記の「七政四余を考える人」は誰か?】
 実は春海の弟子・谷秦山が春海の教えをまとめた『壬癸録三』(3丁)には以下の記述がある。

    『七曜暦の奏。国史に見える。元亨(1321-23)の時代になっても,なお,躔(7曜の天体[太陽,月,五大惑星]の位置)で占う者がいた。しかし,その後,天皇の日記に記載されていない。また,その占う者の言うことを聞いていない。考えてみると,七曜暦を奏上することも元亨以後絶えた。』

    元亨年間の頃消えたとする七政四余を考える人は日本の占星術師である宿曜師。

【春海先生実記の「七政四余」とは何か?】
 これも『壬癸録三』(3丁)に春海自身の言葉がある。

    『草木子(宋の書物)曰。星術。七曜四余を以て得失を遇する所を定める。太陽を以て立命を定め。太陰を以て立身を定め。百年を以て行限を定め。(五行の)生剋制化以て人の吉凶壽夭を定める。修行を積んだ者多し。先生(春海)曰。岡野井玄貞。此の術を韓人に於いて学び。極めて詳し。土津(保科正之)かつて,天文暦数者が,命鑑を考える之をいやしみて戒める。予決して之を試さず。』

    星術(占星術)は七曜(政と同じ意味)四余の位置で占い,玄貞は韓人から学び極めて詳しいと言っている。この占星術である七政四余を教えた韓人が実記の記述からみて螺山であることは明白である。 また,文中前半の「七政四余を考える人」が七曜により占星術を行う宿曜師であることもそれを補強している。

    さらに,春海はここで「占星術は決してやっていない」と秦山には言っているが,春海関係の文書の中に七政四余で占った出生占いのホロスコープが残されている。(研究ノートの中に文書の翻刻版と詳細説明あり)この文書は螺山から玄貞,さらに春海に占星術である七政四余が継承された証拠である。

【岡野井玄貞のみが授時暦を知っていたのではない。】

     『壬癸録(三)』(7丁,能田忠亮「暦 増補版」(1966)p.95-97に現代語訳あり)には,改暦を目指す保科正之(正之と略す)が授時暦を用いた改暦を家臣の安藤市兵衛(有益)・島田覚右衛門(貞継)の両士に命じ,「両士授時の法を用いて暦成る」としている。この時春海は監督役だった。このあと,新暦の計算の起点である暦元を授時暦の元朝の時代から江戸時代に変更する問題が持ち上がったが,安藤は問題の解決法を知る春海に教えを請うのを拒んでいる。つまりこの会津藩の二人は授時暦を独自に学び,授時暦による改暦に必要な暦書を一旦は整えていたことになる。春海は正之と改暦を議論したとされる寛文7年(1667)に29才であるのに対し,安藤は44才,島田は60才でそれぞれ『長慶宣明暦算法』や『九数算法』を10年以上も前に出版している。安藤達には正之が改暦事業に新たに加えた若輩の春海に対し反発があったことがうかがえる。
     同じく『壬癸録(三)』(7丁)によれば,春海がこの授時暦の暦元の移動に必要な消長法の解釈を教えてもらったのは朱子学者中村惕斎であり,授時暦は春海より以前に多くの学者が学んでいた。春海の最初の著作である中国春秋時代の暦を授時暦で復元した『春秋述暦』(寛文9年,1669)の共著者は別の暦法の師である松田承順である。

【螺山(朴安期)は何者か?】(研究ノートには含まず。)

【結論】

 春海の師・玄貞が螺山から習い,春海に伝えた「七政四余」は七政四余と呼ばれる占星術である。

 このように文献の原文や当時の状況を見れば,朝鮮通信使の螺山と春海の間には「七政四余」という占星術の関係しかない。「螺山が玄貞に「授時暦」若しくは「七政算内外編」のような暦法を授け,それか弟子である晴海の授時暦による改暦につながった。」という話は,何の根拠もなく「七政四余」を暦法と解釈したために出来た,「現代の神話」なのである。(研究ノートには含まず。)

 
【参考】渋川春海が参照した暦書


    授時暦法書: 渋川春海が参照した授時暦の暦法書は初版(古版)からすぐに改版された新版である。新版は『高麗史』に掲載されており,この書が伝来し江戸城に所蔵されていた可能性が高い。1672年に元史の授時暦(古版)が日本で再版発行される前に,春海に限らず多くの暦算家が「授時暦」を知っていた。『春海先生実記』にあるように,螺山から玄貞に奥秘として伝えられたのであればこの広がりはない。
     なお李氏朝鮮の『七政算内篇』は授時暦と説明されることがあるが,図のように大統暦から派生した暦書である。内容的にも大統暦とほぼ同じであり,大統暦との違いは,消長法と日食の計算を授時暦法に戻した点しかない。月食計算法は大統暦の方法のままである。朝鮮独自に変更したのは,日の出日の入りの時刻の修正のみ。したがって,晴海の用いた授時暦書(新版)と『七政算内篇』の関係性はない。『七政算内篇』から授時暦書(新版)の内容を知ることはできない。
     1672年に元史の授時暦(古版)が日本で再版発行されてからは,日本では元史の授時暦(古版)が授時暦の正式版として認識され,授時暦が施行後すぐに改版(改暦)されていた事実は,現代に入っても知られていない。これは刊本が広く流布されたことが原因だろう。例えば,薮内清/中山茂『授時暦 -訳注と研究-』(2006)にもその言及はない。

    回回暦法書: 回回暦法書は現在4つの版が現存している。渋川春海が参照したと思われる回回暦の暦法書は1569年に再版されたもので,現在でも国立公文書館に現存し,江戸城紅葉山文庫に所蔵されていた書である。なお李氏朝鮮の『七政算外篇』の暦数は回回暦書と全く同じであり,朝鮮で改版された箇所はない。
     この書も『七政算外篇』により螺山が伝えたとする研究者もいるが,占星術「七政四余」に使う計算方法は中国式のものであり,回回暦書が伝えるアルマゲストをもとにしたイスラム天文学の天体位置計算方法とは関係がない。また,江戸城に回回暦書が実在していたことによっても否定される。

     いずれにしても,渋川春海の時代に,『七政算内篇』や『七政算外篇』が掲載されている『朝鮮王朝実録』が伝来していたという記録は無い。

【参考】

 



2020/05/05 追記
2020/05/03 追記
2020/04/30 掲載

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