3. 定説「3古道は同時期に等間隔で敷設された」の検証

ー 中ツ道の検証 ー



 

1.はじめに

 大和平野を南北に通る直線の三古道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)は、当時の単位で4里(2118m)の等間隔で,同時期に敷設されたと考えられている。しかし,その敷設年代や敷設の目的は解明されていない。年代推定が難しい一つの理由は,たとえ道路の一箇所で土器が発掘されたとしても,その土器の年代を10キロ以上ある道路の全体の年代に適用できないからである。

図1 古代の直線南北道路

[地図はカシミール3Dによる]


2.飛鳥周辺の古道

 大和の三古道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)は横大道を基準に敷設されたとされ,これまでこれらの道は横大路以北でのみ語られ,飛鳥の宮殿との関係はあまり考えられていない。図2の黄色の線は三古道を同じ2118mの間隔で描いている。
 しかし,川原下ノ茶屋遺跡での道幅12mの東西道の遺構発見により,下ツ道は川原寺と橘寺の間を通る2kmを超える東西大路(仮称:飛鳥横大路)で飛鳥宮に直接結ばれていた可能性が高くなった。この横大路は海外の使者を西から迎える朱雀大路の代わりとも考えられる。
 また,上ツ道は山田道を通して飛鳥宮の北部に結ばれている。上ツ道は東国に向いており,海外の使者は来ないので,宮の南面に大路で接続する必要が無かったのだろう。

 ところが,中ツ道は天香具山に妨げられて飛鳥宮と直接結ぶ大路はない。飛鳥内でも中ツ道の遺構は発見されていない。最短で飛鳥宮に行くためには昔ながらの小道を通るしかない。このように飛鳥の宮を中心に三古道を考えた場合,中ツ道の敷設の目的が見えてこない。もし,定説通り同時期に敷設されたのであれば,中ツ道にも飛鳥内に続く大路が整備されていたはずである。これが三古道の敷設理由がはっきりしない一つの原因である。
 

 

図2 飛鳥周辺の古道

[地図はGoogle Earth Proによる]


3.中ツ道の敷設が同時期でない可能性

 三古道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)の敷設年代は不明であるが,同時期に敷設されたと考えられている。その理由は,2118mの等間隔という同じプランで敷設されているとされるからである。この間隔は岸俊男が地図の横大路上で測ったものである。しかし,指摘されることは無いが,下ツ道と中ツ道の間隔は北の平城京の入り口では150mも想定より西に寄っているのである。

 図3では横大路上で,下ツ道を基準に2118m間隔で中ツ道,上ツ道を黄色の線で引いた。道路の方位も下ツ道と同じ方位とした。それに対し,中ツ道に関係あるとされる神社は,そのすべてが100mあまり西に寄っていることが分かる(オレンジの線)。しかし,中ツ道の始点と言われる三輪神社や,中ツ道の遺構とされた藤原京条坊路の発掘点は紫色の線(藤原京条坊路)の上にあることがわかる。

 この図からわかることは,2118mの間隔は横大路で測った藤原京の条坊路の間隔であり,下ツ道と中ツ道の間隔では無いということである。したがって,藤原京内で中ツ道の遺構と報じられた東二坊発掘遺構も,藤原京条坊路にすぎないことになる。
 一方上ツ道は黄色の線上にあり,下ツ道と上ツ道の間隔は2118mx2である。

 これにより,下ツ道と同時に敷設された可能性があるのは上ツ道のみであり,中ツ道は別の時期に敷設された可能性が高いことになる。これが,飛鳥宮までの大路がない理由だろう。中ツ道は飛鳥宮とは関係が薄い道といえる。

「中ツ道・村屋神社付近の発掘実績」

 

図3 大和古三道(南部)

[地図はGoogle Earth Proによる]


4.中ツ道は方位も違う

 中ツ道は最近北部の数箇所で発掘が行われ側溝遺構が発掘されている。これらの発掘場所も,黄色の線ではなく,西にずれたオレンジの線上にある。
 中ツ道は2118m間隔で並行に進めば九条四坊大路に入るはずであるが,実際には100m以上西にずれているので,一筋西の九条四坊東小路に入ることになる。しかし,実際には越田池の造成の関係でさらに30mほど西に寄って平城京に接続されている。

 図3と図4を見ると中ツ道は想定したラインより西にずれてはいるが,下ツ道と同じく直線道路であることが分かる。ただし方位は下ツ道より西に振れている。したがって,中ツ道は方位も下ツ道と上ツ道の方位と違う。

 

図4 大和古三道(北部)

[地図はGoogle Earth Proによる]


5.中ツ道が西に約90mずれた理由

 最初に約90mずれた場所は図5のように現在でもその跡が確認できる。この場所は藤原京の最北条路から出てわずか100mあまりの所である。その理由は,藤原京の条坊路間隔と下ツ道と上ツ道の間隔が合わなかったからと考えられる。ここの300mあまりの区間で約90mのずれを修正したわけである。もし他の地形的理由であれば,この先で東に戻らないといけない。したがって,中ツ道は藤原京が造営される前は,オレンジ色の線上にあったことになる。

 なおここの部分については既に,井上和人著「平城京羅城門再考」(条里制古代都市研究 14 1998)p.23で指摘されているが,その理由を「この状況は,前稿で指摘したように,その場所が旧来谷地形の部分であり,自然流路が存在していたとみられ,中ツ道開削に際して北北西方向に斜行する谷地形に沿って路線を設定したことに起因する。」とする。

 大和古三道の間隔が2118mとされたのは,横大路で測ったためであり,その距離は藤原京の条坊路の間隔にすぎなかったことが,この部分からでもわかる。
 

6.中ツ道の測量起点

 中ツ道の測量起点は当然ながら,延長線上にある天香具山ということになる。

 

図5 大和古三道(藤原京接続路)

[地図はGoogle Earth Proによる]


7.中ツ道が接続していた宮殿

 先に述べたように,下ツ道と上ツ道は飛鳥宮に付随して敷設された可能性が高い。これは難波大道が難波宮に付随して敷設されたのと同様である。

 では,中ツ道はどの宮に付随していたのか?
その条件は以下である。
 (1)中ツ道に近い宮殿。
 (2)正方位測定法と宮殿造営思想が伝来した
   630年代以降に造営された宮殿。
 (3)正方位で造営された宮殿。
 (4)大道を付随する大規模な宮殿。

 この条件にあてはまる宮殿は磐余の地に造営された舒明天皇の百済宮しかない。629年に即位した舒明天皇は630年に飛鳥岡本宮(真北より約20°西偏)に遷宮した。しかし,636年6月に岡本宮は火災で焼失した。 舒明天皇は舒明11年(639) 7月に百済大宮と百済大寺の造営の詔をだした。中ツ道はこの時宮に付随して敷設された大道と考えられる。横大路もこの時百済宮の東西大路として整備されたのだろう。百済大寺は発掘成果により図6の吉備池廃寺跡とされる。百済宮の場所は不明だが,宮の大路から中ツ道が続いていた可能性もある。

 

図6 中ツ道と百済宮・百済大寺

[地図はGoogle Earth Proによる]

 百舒明天皇は640年10月に百済宮に移るが,この地域は直線の路に囲まれて正方位の建物が並び始め,日本で最初に本格的な都が出来つつあっただろう。この時代には飛鳥にはまだ正方位の宮殿はなかった。北極星をイメージした中国の「太極殿」が,「大極殿」として日本で初めて造営されたのも百済宮ということになる。しかし,舒明天皇は翌年(641)10月には亡くなり今ではその痕跡も無い。この時に百済宮で即位したのが皇極天皇である。皇極天皇はその名のように大極殿(百済宮)で最初に即位した天皇である。皇極天皇はその後飛鳥に還るが,消失した飛鳥岡本宮の跡を整地しなおして,正方位で飛鳥板蓋宮(642)を造営した。これは百済宮の影響であり,当然大極殿もあった。以後大極殿を持つ正方位での宮殿の造営が続く。

 現在では飛鳥板蓋宮の大極殿は『日本書紀』の誇張とされ,前期難波宮の大極殿は『内裏前殿』という一般名称がつけられている。大極殿の成立時期も問題にされているが,大極殿は中国で成立した宮殿思想であり,日本に伝来してから機能の変化はあったとしても,名称は伝来した時点で成立していたことは明らかである。

 中ツ道が百済宮に接続していたことは,飛鳥内に中ツ道の遺構がない理由ともなる。

8.まとめ

 大和平野を南北に通る直線の三古道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)は「同時期に等間隔で敷設された。」と想定されてきたが,この想定は中ツ道の経路の考察で誤りであることがはっきりしたと思う。また,これまで大和の三古道は宮とは独立して考えられてきたが,難波大道のように,宮に付随した大道としてとらえることで,大和の三古道の敷設された理由が明確になったと考える。
 古代の直線道路はまず舒明朝で百済宮(640)に付随して中ツ道及び横大路が敷設された。次に,孝徳朝で難波宮(652)に付随して難波大道が敷設された。その後飛鳥に還った斉明朝で後飛鳥岡本宮(655)に付随して下ツ道と上ツ道が敷設されたと考えられる。いずれの大道も皇極天皇(斉明天皇)が関係していたことにはなる。

 以上の検証により,敷設は古い順に以下と推定できる。
  @安倍山田道(推古朝)
  A中ツ道(舒明朝)・横大路(舒明朝)
  B下ツ道(斉明朝,定説1の検証より)・上ツ道(斉明朝,同時期)

 改めて図7を見ると,飛鳥宮まで直線で平地の部分に南北道路を敷設するには,下ツ道のルートしかないことがわかる。

 

図7 飛鳥の古道

[地図はGoogle Earth Proによる]


 大和三古道の造営年代を推古朝まで遡るとする推定もあるが,推古朝には正方位の宮殿や建物はない。正方位の大道と大極殿を含めた正方位の宮殿はセットなのである。正方位で造営された最初の宮殿はまだ発見されてはいないが百済宮(640)である。それは百済大寺の遺構によっても推定できる。なお,飛鳥寺(593)や四天王寺(593)を正方位の寺院と呼ぶ文献もあるが,真北より1度以上振れていて,正方位とはみなせない。いずれにせよ,舒明天皇の飛鳥岡本宮(630)は真北から西に約20度振れており,正方位による宮殿造営は思想はこの時にはまだ無い。


2021/06/17 項目5と図5を修正。
2021/06/05 UP
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