1.はじめに
岸俊男は1969年に藤原京域の案を発表し,西を下ツ道,東を中ツ道,北を横大道,南を安倍山田道で囲まれた領域とした。また藤原宮は下ツ道と中ツ道の中間にあるとした。また,「飛鳥の方格地割」(1970)では,その中央に中ツ道を置いて論じている。
これにより,中ツ道は天香具山を越えて飛鳥を通っていたと信じている人もいる。
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図1 岸俊男の藤原京域
[Google Earth Proより]
2.中ツ道は飛鳥の発掘で出ていない。
その後半世紀発掘調査が続けられているが,飛鳥では中の道の遺構は発見されていない。それに加え,岸の「飛鳥の方格地割」の主張の基本にある中ツ道は「3. 定説「3古道は同時期に等間隔で敷設された」の検証」で検証したように,そもそも,中ツ道ではなく,藤原京二坊大路とそれを延長した仮想の道である。
したがって,天香具山より南に中ツ道が存在したという根拠は,理論的にも,また発掘からも実証されていない。
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図2 中ツ道と藤原京二坊大路
[Google Earth Proより]
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3.まとめ
一説「中ツ道は飛鳥まで通じていた」を検証したが,この説も中ツ道の存在理由を不明にしていた説である。これにより,中ツ道も飛鳥宮に関係した大道と考えられているが,実際にはその根拠は何もなく,中ツ道は天香具山の北面を起点としていたのである。 飛鳥3古道については,@同じ間隔である。A下ツ道は丸山古墳が起点,B中ツ道は飛鳥にも通じている,の主な3点の実証されていない説により,その敷設理由と時期が不明確になってしまっていた。
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