古代の北極星に明るい星という条件は無い

- 「北極星は輝星」は現代日本で創作された神話 -



1.はじめに

 北極星については、天文学辞典で『天の北極(地球の自転軸を北極側に伸ばして天球と交わる点;赤道座標系参照)の近くに位置している明るい星(こぐま座:α星: 2等星)。』と説明している。またWikipediaでは『北極星(ほっきょくせい、pole star, north star)とは、北側の極星(英語版)(ポールスター)のことで、天の北極に最も近い輝星を意味する。』とある。また英語版Wikipediaでは、『A pole star or polar star is a star, preferably bright, closely aligned to the axis of rotation of an astronomical object.』(北極星は、天球の回転軸に近くできれば明るい天体。)

 この日本語版Winkipediaと英語版Wikipediaの定義の違いでも分かるように。現代の日本ではいつの間にか「北極星は天の北極点(天極)に近く明るい星」という定義がなされ、「天の北極点(天極)に近く」かつ(and)「明るい」ことが北極星の条件とされている。また星図も図1のように5等星以上の明るい星で描かれたものが使われ、現在の北極星(こぐま座α)の前の北極星は紀元前2800年頃りゅう座α(ツゥバン)という説明がよくなされている。また古代の中国では北極点付近に明るい星がなかったため、こぐま座β(コカブ)が北極星とされていたと説明される。これらを根拠として奈良文化財研究所の古代の方位測定法を述べたページでは、『古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。 』と断定し、北極星による古代の方位測定を完全に否定している。

 しかし、この「明るい」というのは現在の北極星(こぐま座α)を指したものであり、また英語版Wikipediaの定義にあるように願望にすぎない。古代の中国の北極星に「明るい」という条件はない。

図1 紀元1年頃の天の北極点を中心とした星図(5等星以上、小さな●が表示した年代での天極の位置)


2.隋・唐時代以降の北極星

 福島久雄「孔子の見た星空」(1997)は、孔子の云う北辰が北極星ではなく天極であることを主張している。それでも唐から宋の北極星(キリン座Σ1694(HR4893), 5.28等星)を「このちいさな星を一般の人が目印にしていたかどうかは不明である。」と北極星であったことは認め、この星を示すための星図を6等星(他の星図は5等星まで)までの星で描いている。つまり、「孔子の見た星空」(1997)が、北辰が北極星でないという主張も、図1のように孔子の時代の天極には5等星以上の星はなかったことを根拠にしているに過ぎない。(注1)

 中国では北極星は「極星」と呼ばれ,天の北極に一番近い星という意味しかない。「北極星」という言葉も,中国にはもともと無く,江戸時代後期に日本で造られた和製漢字が中国に逆輸入されたものである。また、中国から技術を導入していた古代日本において、先にあげた、古代の方位測定法のページにある、「古代の日本に北極星にあたる星は存在しなかった」という主張も根拠がない。この北極星は図4のグラフのようにAD700年に天極から0.8度のところにあり、現代の北極星(ポラリス)と同程度の位置にある。AD800年には天極から0.55度まで近づく。

 図3は図1を人間の眼視限界等級にちかい6.6等星までの星で描いた星図である。この暗い星(HR4893, 5.28等)が北極星であることで、北極星の条件として「明るくかつ(and)天極に近い」という条件は間違いであることが明白である。すなわち中国における北極星の条件はその時代において「天極に(一番)近い星」という条件のみである。したがって,「北極星を輝星」と書く理由は,北極星の起源である中国の北極星の歴史を知らずに書いているからである。

図2 古代中国の北極星の条件

(2023/08/12追記)

 

 北極星に「明るい」という条件が無く、「天極に近い」という条件のみとなると、図3のように明るいという理由だけで,「天極から近い」星でもないこぐま座β(コカブ)を北極星とした同定も間違いだった。これまでこの簡単な論理で破られる条件が疑いももたれずに見過ごされてきたのか不思議である。

注1:「孔子の見た星空」(1997)では5等星以上の星図しか用いていないことをすぐに気づいた人もいて、種村和史(「孔子の見た北辰は「星無き処」だったのか?」東方 205 (1998))p.18-19はその書評で、北辰にあたる星については、孔子の時代の北天を5〜6等程度の星まで視野に入れて候補を探すか、こぐま座β(帝星)を文学的比喩に用いていたと考えるべきとする。但し後半の部分から、この方も孔子の時代の北極星がこぐま座β(帝星)である可能性を捨てていないことが分かる。
 中国星座を構成する星約1460個の内5.0等星より明るい星は約800個(55%)しかない。したがって光度を5.0等までに絞った星図では中国星座は描けず、そのような星図で中国の星の話をすること自体が間違っている。
 なお「孔子の見た星空」(1997)は、香西洋樹著『シャークスピア星物語』(1996)の手法から着想したものだろう。同p.77-78に「結論として、シーザの時代の天の北極には、「北極星」といえるような明るい星はなかったことになります。」とある。現代の科学者には、古代人が5等星より暗い星を北極星として使う訳がないという思い込みがある。しかし実際には、古代であっても渾天儀のような観測装置で星の位置を観測する場合、たとえ暗い星であっても、天極に近い星が、装置を天極に向けて設置するのに必要なのである。これは、現代の望遠鏡の赤道儀を設置する場合となんら変わらない。北極星の話になると、現代の科学者はこのことを失念しているのである。(2023/08/12追記)

図3 紀元1年頃の天の北極点を中心とした星図(6.6等星以上)


3.隋・唐時代以降の北極星の位置
 図4に2.隋・唐時代以降の北極星キリン座Σ1694(HR4893)の天の北極点(天極)からの角度を示す。この図から分かるように、飛鳥時代後半から平安時代にかけては天極から1度以内にあり、現在の北極星(こぐま座α)と同程度の位置にある。HR4893(5.28等)は重星のHR4892(5.8等)の光度を合成すると4.8等となり(星座)北極五星の一つHR5321 (4.8等)と同等の明るさである。

 このことは遣唐使により日本にも伝わり、北の方位を観測する方法に利用されたと考えられる。『北極星による古代の正方位測定法の復元』の発表の[表2 都城と大道の造営時代と方位一覧]にまとめたように、飛鳥の宮殿が正(南北)方位で建てられるようになったのは第一回遣唐使以降である。特に中軸線の方位が測定されている前期難波宮以降は、真北からのずれが25分程度となり技術革新があったことが分かる。

 先に述べたように福島久雄「孔子の見た星空」(1997)は、この星について、「このちいさな星を一般の人が目印にしていたかどうかは不明である。」としているが、北極星の議論の対象とする古代の人々は、当然ながら一般市民ではなく、天文観測をしたり、北極星を利用して都城造営のための測量を行う官庁の人々や孔子のような公人である。

図4 隋・唐時代以降の北極星(キリン座Σ1694(HR4893))の天極からの角度

 

4.『古代では北極星を目印に航海していた』という神話

 また,北極星に関するWEBのページを見ると,「北極星は古代から航海の目印にされていた」という記述を見かけるが,古代の北極星は5等星より暗いので,動いている状態では認識できない。この記述も現代の北極星「αUMa」に対してのみ使える表現である。従って,せいぜい16世紀頃以降である。
 暗い北極星の時代には、星座の位置関係で真北の方向を認識していただろう。

 



2023/08/12 修正
2022/01/12 修正
2020/09/21 図3を6.6等星に修正
2020/03/01 修正
2020/02/28 UP
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