『北極星による古代の正方位測定法の復元』の発表

― 遂に判明した古代の方位測定法 (2021/09/20) ―


 
【概要】

 中国宋代の建築書『営造法式』に載る方位測定法をもとに復元した「天極に近い暗い北極星と28宿距星の南中時刻を用いた方位測定法」が,春秋時代から約2千年の間行われていたことを実証し,2021年9月発行の数学史研究 第239号(2021年4月~7月号)で『北極星による古代の正方位測定法の復元』を発表した。また,中国の遺跡の検証や,日本の古道や古寺の検証を含む(『古代の正方位測量法 ―正方位の年代学―』(私家版)を発行した。

 中国では,秦始皇帝陵などが孔子の云う北辰(北極星,HR4927,図3)により方位測量されて造営されていた。これにより孔子の云う北辰が春秋時代から漢代の極星(北極星)であったことが証明された。「孔子の云う北辰は天の北極点」という説や「古代の北極星は帝星(β UMi)」という説は,根拠のない誤った説であることが確定した。

 日本では,北極星(HR4893)を用いた方位測量が都城や大道の測量に用いられていた。都城や大道の真北からの振れが,それぞれの距星の南中時刻に測った北極星の方位にほぼ一致している。通説では「日本の都城は太陽を用いるインディアンサークル法で測量されていた」とするが,これも根拠のない誤りであった。飛鳥時代の舒明朝に大極殿を中心とした宮殿の正方位の造営思想と北極星による正方位測定法が伝来してからは,北極星と距星を用いた天文測量を用いて都城や大道が造営されていた。

 これまで古代の天文は宗教や民俗としか捉えられてこなかったが,近代測量にひけを取らない天文測量技術が古代中国の春秋時代までに生まれ,それが日本の飛鳥時代に伝わったことを発見し,実証したことになる。


 

 
1. はじめに

     京都の道路は碁盤の目のように,直線の道路がほぼ正確に東西南北を向き,直角に交り敷設されている。これは京都の道路が約千二百年前の平安京(794)の条坊路を基盤にしているためだが,平安京の条坊路の方位が,どのような方法で測量されたのかは現在まで不明であった。

     平安京の方位は,1981年には遺構の解析から条坊全体が真北から約23分(1度は60分)わずかに西に振れていることが判明した。古代日本では複数の都城や10kmを超える南北の直線道路が建設されているが,今ではその遺構のそれぞれが固有の方位の振れを持っていることも明らかになっている。例えば,前期難波宮(650)は約24分東偏,藤原宮(672頃)は約35分西偏,平城京(708)は約21分西偏,長岡京(784)は約6分西偏している。(表2)

     これまで日本古代の都城などの造営方位の測量法は,太陽でできる影を用いるインディアンサークル法と呼ばれる測定法を用いたと推定されてきた。しかし,この測定法のような真北を測定する方法で都城に複数の南北条坊路を敷設した場合,統計的にその条坊路の方位は真北を中心に分布し,その中心が都城ごとに真北からはずれた固有の振れを持つことはない。(「古代都城の正方位測定法がインディアンサークル法ではない根拠」を参照)一部の研究者は下ツ道,平城京や平安京の振れがほぼ同じであることに注目していたが,その原因を突き止めるまでには至らなかった。また,これまで全ての都城遺構の振れの原因を統合的に研究した研究者もいなかった。

     春秋時代を生きた孔子は『論語』で「北辰居其所、而衆星共之」と,北辰は其の所に居て動かないと説いている。都城の真北からのわずかな振れは,北辰極星(北極星)の赤経と近い28宿の一つの距星が南中する時刻に,わずかに天の北極点からはずれた北極星を見て方位を測定することで発生していた。この方位測定法は飛鳥時代(舒明朝)に日本に伝来し,それ以後の宮殿を含めた都城の造営や大道の敷設に用いられていた。

     

2. 距星の南中時に北極星を測定する方位測定法の原理

    基本原理の説明
     天球は地軸を中心に回転している。北極星は天極(天の北極点)にあれば動かないが,実際には天極から少し外れたところにあり,他の星と同様に天極を中心に回転している。
     ここで,図1のように,北極星と同じ赤経の星と180°離れた星を仮定し,この2つの星を定星と呼ぶ。2つの定星は観測者の天頂から南にあるとする。これら3つの星は同じ平面上にあり,地軸を軸として回転していることになる。
     この平面と観測者の子午線が重なった時に,同赤経の定星は真南にあり,北極星は観測者から見て真北の天極の上方にある。季節が移り,北極星と赤経が180°離れた星が観測者から見えており,平面が子午線と重なった場合には,赤経の180°離れた定星は真南にあり,北極星は観測者から見て真北の天極の下方にある。
     すなわち,定星が南中した時に北極星の方位は真北にある。2つの定星は年間を通じて測量を行うためにある。

     

図1 測定原理の説明図

 

    定星に28宿距星を用いる
     中国では赤道や黄道に沿って28個の星宿があり,それぞれの星宿の西端の近くに明るい距星と呼ばれる星が決められている。北極星と同赤経若しくは180°離れた赤経に目印となる明るい定星は通常無い。その代わりに,中国では理想の定星に近い星宿の距星を定星として用いた。

     北極星と定星を用いた方位測定では,北極星と理想の定星が作る面で方位を測定する。しかし,図2のように,距星の南中時刻による測定方法では,北極星の方位と距星が南中する子午線とはθだけ真北から振れる。 この振れθは場所(観測値の緯度),年代(歳差),用いる北極星と定星の関数になる。このθ(場所,年代,北極星,定星)の計算結果と都城の固有の振れφ(場所,年代)がほぼ一致していた。

     この測定法の誤差を推定すると,星宿距星の最大間隔は井宿の33°なので定星が適切に更新されていることを仮定すれば,最悪その半分の16.5°に相当する分の南中時刻が違うことになる。北極星が天極から1.5°離れていた場合の概算の最大誤差は約26分角(1.5x2xtan(16.5/2))となる。
     実際には大半の距星間の間隔は井宿の半分前後なので,最大誤差も13分角前後となり,実用的な測量法である。しかし,検証した結果ではいろいろな理由で,最良の方位を得られる距星では無い場合も多い。

     

図2 28宿距星を用いた測定法

 

    星宿距星を用いた測定結果の推算
     表1が582年1月1日の長安での推算例である。この年に隋唐の北極星HR4893は赤緯88.6°にあり,天極より1.4°離れている。赤経は334.6°なので,方位を測るのに使う距星は,表1の距星の赤経の値から室宿か翼宿の距星となるが,1月の夜に見える星は翼宿の距星である。何も考えないで北極星を見ると,表1の方位の欄から最悪約100分程度西に振れるが,午前3時頃の翼宿の距星が南中した時に北極星を見て方位を測ると,真北から11.5分西偏の方位を得ることができる。これは表2の隋・大興城(582) に残る城壁遺構の方位(14.9分)と約4分の誤差で一致する。図7参照。なお,中国の遺跡遺構の方位測定については,私家版『古代の正方位測量法―正方位の年代学―』で検証した。

     図3は竹迫忍(2020)で筆者が同定した古代の北極星(複数)である。近代の科学者は古代の北極点付近に北極星と呼べるような明るい星はないとするが,北極星が明る星というのは彼らの思い込みでしかない。そのために,これまで北極星による方位測定の研究がされてこなかった。現代の北極星(こぐま座α)の前の北極星はりゅう座αと説明されることもあるが,それは安易な考えで,また間違いである。
     古代の人々も暗くても北極点に近い極星(Pole Star)を必要としていたのである。 例えば現代の赤道儀同様,古代の渾天儀もその軸を北極点に向ける必要があり,そのためにも,天極に近い極星が必要だった。

    図3 古代の北極星

     

表1 28宿距星を用いた推算例

 

    測定に使用する観測器具
     『営造法式』は北宋の哲宗(在位:1085-1100)のとき,李誡(李明仲)が勅を奉じて編纂し,1103年に刊行された官庁による最古の建築書である。その基本項目を述べた「営造法式看詳」の章に「取正之制」という太陽と北辰極星を用いた方位測定法の解説がある。

     測定には図4の,太陽でできる棒の影を追う方位計の『景表版』と『望筒』を使用する。
     景表版の大きさは,宋代の1尺を31.68cmとすると直径約43cmの円盤であり,その中心に高さ約13cm直径3mmの棒(ノーモン)を立てて使う。
     望筒は長さ57cm,幅が縦横それぞれ9.5cm。その望筒の前後の板に直径16mmの孔をあける。孔の視野は角度で約1.6度(2 x arctan(16/2/570))となる。

     簡単に手順を説明すると,まず,昼間に『景表版』を使い,棒の影が一番短くなる方向を求め,仮の子午線とし,その子午線上に望筒を南北に設置する。
     夜になったら,目標になる距星が南中する少し前に,望筒で南から北を見て北極星を導入し,孔の中央に北極星がくるように,台座を調整する。次に,望筒で北から南を見て,距星が孔の中央に来たら,南から北を見て,北極星が孔の中央にくるように,台座を調整する。この望筒の方向が南北となる。『営造法式』には北極星を見るタイミングの記載はないが,(詩)経伝と同じとあることから,距星の南中時に測定したと推定した。

       図4の景表版や望筒は宋代の書に記載のものであり,望筒が古代に実在した記録はないが,基本的な構造は恒星の南中を観測する近代の子午儀とも同じである。子午線を通過する南の星と北極星を同時刻に観測する場合,古代においても同様の構造にならざるを得ないと考える。望筒は漏刻とともに恒星の南中時刻を測定することにも使われていただろう。また,正方位にかかわらず,直線道の敷設のための測量にも望筒は用いられただろう。

     

図4 測定に使用する観測器具

 

3. 春秋時代の方位の振れ(北極星:HR4927)

     『営造法式』にも引用のある『詩経』には「定之方中」(定(星)の南中)がある。この定宿は営宿(室宿)とされる。『毛伝』にも「南視定,北準極」とある。室宿の南中を北極星の観測時刻とした可能性がある。また,『晏子春秋』には「南望南斗,北戴樞星」とある。
     筆者が同定した,春秋時代の北極星 (HR4927)を使い,室宿と斗宿の距星が南中した時刻の北極星の方位を計算した結果が図5である。この方式で測れば,春秋時代でも真北±20分程度の振れで方位が測定できていたことになる。図5により,この方法が発見されたのは,孔子(BC552-479)の生きた時代より前と推定できる。

     

図5 春秋時代の方位の振れ(北極星:HR4927)

 

4. 始皇帝陵の方位(『古代の正方位測量法 ―正方位の年代学―』に含む)

     鶴間和幸(1995)p.632によると,始皇帝陵は秦王に即位した翌年のBC246年に造営が始まり,BC210年の死去後地下の墓室に埋葬され,翌年その上に墳丘が築かれた。 惠多谷雅弘他(2014) p.133は墳丘の底辺位置が不明確なため実測した外城の境界石をもとに方位を計測し,外城の東壁が真北から1.3度の東偏,西壁が1.5度東偏であることから,陵園中軸線の方位を平均で1.4度(84分)の東偏とする。同p.127は陵園建造過程において大規模なグリッドプランが作成され,それにもとづいて整地された階段上の土地に,墳丘,内外城,兵馬俑坑などの建造物を配置した可能性が考察されたとする。
     『史記』では,始皇帝の宮殿配置は星座に例えられ,また,始皇帝陵の地下墓室は「上具(そなえ)天文,下具地理」とあり,北極星の利用が想定される。陵墓の造営方位の測定年は不明だが,彼が即位した13才の時に秦の王墓として始まった造営は,中国の統一(BC221)にともない皇帝陵として拡大されたと考えられている。

     拡大後の造営プランに沿った測量を全国統一の頃(BC221)と推定し,春秋から漢代の北極星HR4927を用い,翼宿を定星として計算すると84.7分東偏となり,実測平均値とほぼ一致する。図6を参照。これにより春秋後期の定星が更新されないまま用いられたと考えられる。(室宿の季節によるペアとなる星宿が翼宿である。)

     この時代の北極星は,近代になってから誤って帝星(β UMi)とされてきた。しかし,これは「帝星(β UMi)は古代の北極星ではない」等で説明したように,「北極星は明るい星」という先入観をもとに,近代になって行われた誤った同定だった。帝星を極星とする古代の文献は一つもない。秦の始皇帝の時代の北極星は孔子が北辰と云う星(HR4927)であったことを図6は証明している。始皇帝陵は翼宿の距星が南中した時に北極星(HR4927)を見て造営方位を測量されていた。

     孔子(BC552-479)が『論語』で「為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之」(政を為すに徳を以て,北辰が其の所におりて定まり、衆星はこれと共にするように)と北辰に例えているのは,当時北辰である極星が,天極に近い位置にあり,その星を用いて北の方位を測量しているのを目にしていたからだろう。図5と図6により孔子の云う北辰が北極星(HR4927)であったことが確定した。
     

    図6 北極星(HR4927)の方位線と中国古代遺跡の方位(単位:分, 1度は60分)
    [方位線:各年代において星宿の距星が南中した時の北極星の方位を結んだ線]

    注:(『古代の正方位測量法 ―正方位の年代学―』では,趙王城や漢長安城関連遺跡の方位についても検証。

     

5. 日本の都城の造営方位

     平安京の条坊は極めて真北に近い。宇野隆夫他(2010)p.43によると,内田賢二と平尾正幸は1981年に最小二乗法を用い,理論上の条坊構成と発掘結果を比較し,その振れ(平安京の条坊が京全体として真北から振れていることを示す)を真北から22分55±48秒の西偏とした。これ以降,藤原京,平城京,それに長岡京でも同様の解析が行われ,それぞれ,真北から固有の振れを持っていることが確認されている。

     これらの都城を含め,日本の都城条坊や大道遺構の真北からの方位の振れを表2にまとめた。都城以外の値は遺構中軸線の振れである。表4のデータは隋大興城と中ツ道を除き,考古学者がそれぞれの遺構の発掘データ等から計算した生のデータである。それに直角座標の補正値を加え真北からの方位としている。  

     表2を見ると630年の飛鳥岡本宮までは20度も西に振れているので正方位の思想や技術はない。舒明天皇(629-641)や皇極天皇(642-645)の時代から宮殿が正方位で建てられており,この頃に宮殿や都城の設計思想と共に精度の高い正方位測定法が伝来したと考えられる。林部均(2008)p.29は中国の思想が新たに伝わり,飛鳥での王宮,王都の造営に強く影響を与えたとする。表4の遺構にはそれぞれ真北からの振れがあるが,統合的に検討した研究は無い。

     
    表2 都城と大道の造営時代と方位一覧
    史跡*1 年代*2 直角座標方位 座標補正*3 真北からの方位(振れ) 方位の出典*4
    隋大興城(唐長安城)西城壁跡 582 西 14.9分 筆者測定*10
    (参)太子道(筋違道) ? 西 約20度 奈文研(2007)p.196
    (参)法隆寺(若草伽藍跡) 607 西 約20度 奈文研(2007)p.196
    飛鳥岡本宮*5 630 西 約20度 林部 均(2008)p.37
    百済宮 639 (正方位) 筆者推定
    大和・中ツ道 (639) 26分31秒 6分12秒 西 32分43秒 筆者測定参照*10
    飛鳥板蓋宮*5 643 (正方位) 林部 均(2008)p.37
    前期難波宮(中軸線) 650 -39分56秒 16分17秒 23分39秒 李陽浩(2005)p.93
    難波大道中軸線 (653)*6 -42分39秒 16分17秒 26分22秒 李陽浩(2005)p.94
    後飛鳥岡本宮*5 655 (正方位) 林部 均(2008)p.96
    大和・下ツ道/上ツ道 (655) 17分25秒 6分56秒 西 24分21秒 奈文研(1982)p.21
    飛鳥浄御原宮*5 672 (正方位) 林部 均(2008)p.122
    藤原京(条坊最適方格) 672*7 28分21秒 6分32秒 西 34分53秒 入倉徳裕(2013)p.180
    大宰府条坊 (684)*8 (大宰府政庁Ⅱ期(中軸線)と同等) 井上信正(2009)p.20
    平城京(条坊最適方格) 708 14分15秒 6分56秒 西 21分11秒 入倉徳裕(2013)p.180
    大宰府政庁Ⅱ期(中軸線) (713) *9 -34分24秒 16分04秒 18分20秒 井上信正(2009)p.19
    後期難波宮(中軸線) 726 -32分31秒 16分17秒 16分14秒 李陽浩(2005)p.93
    長岡京(条坊最適方格) 784 -3分44秒 10分12秒 西 6分28秒 岩松保(1996)p.21
    平安京(条坊最適方格) 793 14分23秒 8分52秒 西 23分15秒 辻純一(1994)p.115
    平安京白河街区(今朱雀) 1075 -49分30秒 7分38秒 41分52秒 濱崎一志(1994)p.130

      *1: 6世紀末に建立された飛鳥寺なども正方位ともされるが,実際には飛鳥寺は西に約1.5度以上,難波・四天王寺も西に約3.5度も振れているので表2に含めていない。また,これらの寺院は王宮の方位に影響を与えていない。振れの大きい近江大津宮(667,西に約1.5度)及び恭仁京(740,西に約1度)も表2から除いた。
      *2: 括弧内はまだ推定造営年代がある程度定まっていない史跡である。
      *3: 平面直角座標系の真北からの方位補正のため,国土地理院WEB(平面直角座標換算サイト)により次の場所の値で補正した(全て西偏)。藤原宮跡,平城宮跡(下ツ道),大宰府政庁跡,難波宮跡,長岡宮跡,平安京内裏跡(千本通),京都・東大路通。
      *4: 表2の方位は大和中ツ道を除き全て出典の文献に明示されている値である。
      *5: 同じ場所にある。飛鳥板蓋宮は造営方位を変えて建てられた。(林部均(2008)p.37)
      *6: 孝徳紀白雉4年(653)6月「処々の大道を修治」より。
      *7: 藤原京の年代は条坊施工開始推定年。
      *8: 井上信正(2020)p.248は日本書紀持統3年(689)9月の監新城が条坊都市の竣工に伴う監査だろうとし,造営のきっかけは天武12年(683)12月の副都制の詔とみている。大宰府政庁Ⅱ期朱雀大路(中央に中軸線が通る)は既設の条坊路を拡幅して敷設されているように見える。
      *9: 和銅6年(713)の唐尺採用以降,霊亀年間(715-717)まで。 
      *10: 『古代の正方位測量法―正方位の年代学―』に含む。

     

6. 日本の都城造営方位と方位測定推算値の比較
   (隋大興城と中ツ道は(『古代の正方位測量法 ―正方位の年代学―』に含む)

     日本の古代において隋唐の北極星(HR4893)を用い,それぞれの距星の方位を計算し,真北に近い方位線を抽出したものが図7である。例えばAD650年に虚宿距星(β Aqr)が南中した時に観測すれば,真北より東約28分に北極星(HR4893)があることを意味する。 さらに表2の古代遺構を,推定年代と振れにより図7に記入した。これら古代遺構の振れが,距星が描く方位線にほぼ合致していることが分かる。表3より,遺構の振れと方位線の差の平均は-0.1±2.3(σ)分とわずかである。推定年の差でみれば平均は2.1±6.1(σ)年となる。

     これまで平城京は下ツ道の方位に合わせて造営されたと考えられてきたが,図7により,方位測定に用いる星宿距星が代わったことにより,偶然にほぼ同じ方位だったことが分かる。平安京の方位も同様に偶然である。

     また,根拠もなく同じ時代に敷設されたと思われてきた大和三古道も,中ツ道と下ツ道/上ツ道の間には方位差があり,約20年の差がある。北極星を用いた方位測定技術が舒明朝に伝来し,初めて大道の測量に用いられたれたのが中ツ道である。そして,その中ツ道は舒明朝に正方位で造営されたと考えられる百済宮から北に延びていた(図8)。このように,北極星を用いた方位測量法では,方位の振れの差はば造営年代の差となる。

    【正方位年代学】方位(真北からの振れ)による年代推定
     方位測定に用いられた距星は図7のように年代により定められている。したがって,年代をある程度絞ることができれば,真北からの方位の振れにより遺構の造営年を中心年±7年程度で推定することが可能である。図7から分かるように,例えば約20分西偏では,飛鳥時代,奈良時代初期,平安時代初期の3つの時代があり,他の要素から年代を絞り込む必要がある。『古代の正方位測量法―正方位の年代学―』(私家版)では,真北からの振れと推定年の早見表 (630~829)を添付し,日本の古寺の遺構の年代推定例も示した。
     例えば,文武・大官大寺(飛鳥)は奈文研(1976)p.37に伽藍中軸線の振れは約16分西偏とある。真北からの振れは直角座標6分13秒を補正すると,22分13秒西偏となる。北極星(HR4893)と柳宿距星の組み合わせで,22分13秒の推定年は704±7年となり造営年代とほぼ一致する。

    図7 北極星(HR4893)と28宿距星による方位線と都城や大道の方位 (1度は60分)
    [方位線:各年代において星宿の距星が南中した時の北極星の方位を結んだ線]


    注:例えば平城京は柳宿の距星が南中した時に,北極星(HR4893)を見て南北の方位を測定していた。


    表3 史跡遺構の振れと北極星(HR4893)による方位との差

     誤差には,想定される造営年代自体の誤差を含む。
     若し他の方位測定方法を用いたとする場合には,実測値により近い方法であることを証明する必要がある。

    表4 方位と推定年の早見表(630~829年,単位:分)

7. 大極殿思想の伝来((『古代の正方位測量法 ―正方位の年代学―』に含む)

     日本書紀の飛鳥板蓋宮の大極殿の存在は潤色(脚色)として無視されている。しかし,その存在の否定を証明することは(理論的に)できないにもかかわらず,多くの歴史学者が否定していることがその根拠とされている。前期難波宮でも大極殿が「内裏前殿」と名付けられ大極殿相当とされている。

     日本では大極殿は藤原京で成立したとされているが,北極星を中心とする太極殿の思想と名称は中国で成立し,北極星を用いた方位測定法とともに舒明朝に伝来したものであり,大極殿の起源は日本ではない。藤原京の大極殿のような日本における大極殿の最終形態と違うからといって,それ以前の宮殿の名称が大極殿ではないとする根拠とならないのは明らかである。大極殿が置かれたのは,これらの思想と技術が伝来した後の,舒明天皇の百済宮が最初だろう。百済宮の位置ははっきりしないが,皇極天皇はその名の如く,舒明天皇の崩御の後に百済宮の大極殿において初めて即位した天皇となる。

     皇極天皇は即位後飛鳥へ還るが,焼失した岡本宮の跡地を整地して正方位で飛鳥板蓋宮(643)を造営している。この時には大道は敷設していないが,難波から還った後に造営した後飛鳥岡本宮(655)に付随した東西の大道が下ツ道42)と上ツ道であろう。また,孝徳天皇は難波宮(650)とそれに付随して難波大道を造営している。このように,日本の正方位の都の造営は百済宮と中ツ道に初まり,北極星をイメージした大極殿を中心に造営されるようになった。八角形の王陵が舒明天皇陵墓からはじまるのも偶然ではない。

     正方位の宮と大極殿は一体のものであり,大極殿の名称と機能は別である。これまでは,大極殿を含め天文技術の伝来は天武天皇の時代と誤って推定されていたために,実態との間にねじれが生じていたのである。舒明期に伝来した天文の技術は時刻制や宮殿道路の造営にすみやかに採用されていることから,舒明期において天文観測による時刻管理や測量を行う組織の運用も始まっていたと考えられる。舒明期は中国から直接伝来した技術や思想を基にした革新の時代であった。

     
    図8 中ツ道と百済宮(推定)付近の図

     

8. ピラミッド建造に用いた方位測定法(『古代の正方位測量法 ―正方位の年代学―』に含む)
 

     『定星と北極星で方位を測定する方法は,エジプトのピラミッドの方位を研究したK. Spence(2000)が主張する2星(ミザールとコカブ)同時子午線通過による方位測定法と原理的には同じである。しかし,2星同時子午線通過法は鉛直線上に並ぶ北天の2星を測定する前提のため,南天の星との組み合わせは検討されていない。K. Spenceの案は歴史学的な建設推定年代と70年以上も違うことや,内部通路の方位による年代推定との矛盾などで,当時の北極星ツバン(αDra,HR5291)と10i Draのペア(Rawlins & Pickering(2001))や真北を測る方法なども提案されている。同p.699では,5等星以上の星は極の近くでは10i Draのみとする。したがって,K. Spenceの案も諸説の一つでしかない。

     中国の方位測定法使用の可能性を検討するため,ピラミッド建設時代の北極星ツバン(αDra,HR5291)と同赤経,若しくは180°反対の星を全天で探すと,この時代にツバンとアンタレス(αSco, HR6134)はほぼ同じ赤経にある。クフ王ピラミッド(約3分の西偏)の推定建設年代(BC2552)頃にツバンは天極から約1.4°も離れているが,アンタレスの南中時にツバンを見た方位は真北から1.2分東偏となるので,ほぼ理想の定星である。この測定法が古代エジプトでも用いられていた可能性もある。

     


図9 クフ王時代の北極星ツバンとアンタレスの関係

 
HR番号星名赤経(BC2552)赤緯(BC2552)
HR5291α Dra185.340088.6091
HR6134α Sco184.6354-6.4197

  注:星表SKY2000 Ver.5による。

 

9. 『周髀算經』に「北極星を用いた方位測量法」の記載が無い理由

     インディアンサークル法を都城造営法の測量法と推定した研究者は皆『周髀算經』に記載があることをその根拠としている。しかし,『周髀算經』は天球を理論的に説明した天文算術書であり,測量法の教科書ではない。特に帝星を使った説明は,観測時期が冬至前後の数日に限られ,実際に用いられた測定法ではない。これを近代の天文学者が実際に用いられた測量法と誤認してしまったのである。

     『周髀算經』に「北極星を直接用いた測定法」の記述が無いのは,編纂者がこの測定法に算術的に有用な事項を見つけることができなかったのだろう。北極星と同じ赤経(もしくは180°離れ)の定星が南中した時に,北極星が真北にあるのは当然であり,数学的に説明することはない。

     

10. まとめ

     『営造法式・取正之制』の方位測定法の検証により,古代の文献通り,春秋時代から都城造営に北辰極星(北極星)を用いた正方位測定法が用いられていたことを,計算により初めて実証することができた。

     これにより,孔子が北辰と云う春秋時代の北極星と同定したHR4927が,方位測定に用いられていたことを実証できた。近代の科学者は孔子の云う北辰を,「孔子の時代に北極点に明るい星はないのだから,孔子の云う北辰は北極星ではなく北極点である」とするのが科学的説明としてきたが,この方位測定法の再発見によりそれは単なる思い込みに過ぎなかったことが証明された。「現代の北極星は歳差により古代には北極点にはなく,孔子の時代の北極点には他に明るい星もない。」という一見「科学的」な説明も,「北極星は明るい星jという近代の科学者の思い込みが誤りの原因であった。

     日本では都城造営には北極星は利用できずインディアンサークル法が方位測定法とされてきたが,史跡遺構に残る方位の振れはそれを否定している。今回の検証で「営造法式・取正之制」による方位が史跡遺構の方位におおよそ一致することが判明した。中国の星図を含む最新の天文技術は舒明朝(629-641)に遣唐使船などにより伝来し,導入されたと考えられる。

     北極星を用いた古代の正方位測定法の再発見により,年代の未確定の遺跡,例えば古代直線道路の敷設年代の議論も,唯一の物的確証である道路の方位をもとに,図7が示す年代で集結に向かうだろう。なお,私家版『古代の正方位測量法 ―正方位の年代学―』には,古代寺院の年代検証や,方位の年代早見表などを含めている。

     検証により明らかになった,春秋時代の北極星を用いた方位測定技術が日本に伝搬した流れを図10に示した。鶴間和幸/惠多谷雅弘(2013)p.61の「コラム 漢長安城の南北中軸線」では,漢長安城の都城思想と方位決定の技術は,約900年後の古代日本にも受け容れられたとするが,図10は正にその技術が春秋時代まで遡り,中世まで続いたことを示す。そのなかで,中ツ道の方位が北極星を用いて測量されたことが検証できる日本最古の天文遺産である。

     
    図10 北極星による方位測定に関連する史跡・資料

     

    参照文献
    井上信正 「大宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナル 588 p.19-23 (2009)
    入倉徳裕 「藤原京条坊の精度Ⅱ」 橿原考古学研究所論集 16 p.178-188 (2013)
    宇野隆夫,宮原健吾,臼井正(宇野隆夫他と略す) 「古代」 『ユーラシア古代都市・集落の歴史空間を読む』p.43-61 (2010)
    岩松 保   「長岡京条坊計画試論」 京都府埋蔵文化財情報 61 p.17-37 (1996)
    惠多谷雅弘,鶴間和幸,中野良志,岩下晋治,小林次雄,村松弘一,黄暁芬,段清波,張衛星
         「衛星データを用いた秦始皇帝陵の陵園空間に関する一考察」中国考古学14 p.127-140 (2014)
    竹迫 忍  「孔子の時代からの古代北極星の変遷の研究」 数学史研究 236号 (2020)
    辻 純一   「条坊制とその復元」 平安京提要 p.103-116角川書店 (1994)
    鶴間和幸 「秦始皇帝陵建設の時代」 東洋史研究 53(4) p.632-656 (1995)
    鶴間和幸, 惠多谷雅弘 「宇宙と地下からのメッセージ ~秦始皇帝陵と自然環境」 
           学習院大学東洋文化研究所 東海大学情報技術センター (2013)
    奈良文化財研究所(奈文研)「法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告」 学報76 (2007)
                「平城京朱雀大路発掘調査報告」 (1982)
    濱崎一志 「都市空間の変遷に関する歴史的考察」 学位論文 (1994)
    林部 均  「飛鳥の宮と藤原京」 吉川弘文館 (2008)
    李陽 浩  「前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」難波宮址の研究 13 (2005)

    D. Rawlins & K. Pickering 「Astronomical orientation of the pyramids」Nature 412(2001)
    K. Spence「Ancient Egyptian chronology and the astronomical orientation of pyramids」 Nature 408(2000)



2022/04/03 『古代の正方位測量法』(第三版)のリンク追記
2021/12/08 『古代の正方位測量法』(第二版)のリンク追記
2021/09/23 項目2に追記
2021/09/20 掲載

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