1. はじめに
筆者は『孔子の見た北辰』である北極星をHR4927と同定し,数学史研究 (236号)『孔子の時代からの古代北極星の変遷の研究』で発表した。このページでは,簡略の同定方法と,今までに同定されなかった理由を説明する。なおHR4927は星表「Bright Star Catalogue」【注1】での星表番号である。
2. 『孔子の見た北極星』の同定方法
3. 『孔子の見た北極星』の同定ができなかった理由
このように,現代の星表があれば『孔子の見た北極星』は簡単に見つかる。ではなぜ今まで見つからなかったのかを考える。
3.1 明代までの理由
3.2 清代での理由
3.3 昭和中期までの理由
3.4 昭和の『帝星が古代の北極星』とする誤った同定と『北極星輝星伝説』
さらに,能田忠亮が「東洋天文学史論叢」(1943)で「北極中大星」(星座北極の明るい星)を帝星(こぐま座β)としそれを古代の北極星と同定した。帝星は天極の5°以内に近づいたこともないのに,それ以来,帝星が古代の北極星の定説とされ検証なしに現代まで継承されてきた。例えば,中国星座を研究した大崎正次でさえ帝星を古代の北極星とすることを肯定している。(『中国の星座の歴史』(1987) p.211)
天文関係者の間では,帝星が北極星であることにより,孔子の見た北辰は,いうまでもなく,天極であるとされた。【注2】
HR4927の載る星表が使われるようになった1960年代以降にはすでに「孔子の見た北極星」を探求する天文研究者は皆無となっていた。孔子の北辰の同定を試みた論文は無い。
また,孔子の北辰を北極とする天文関係者がその根拠としているのは,『孔子の時代の北極にはめぼしい星はない』という理由である。現代の日本にはいつのまにか,『北極星は明るい顕著な星』という根拠のない神話が出来上がっており,これも北極星の同定を阻んだ理由である。隋唐から宋代の北極星HR4893が5.3等星であったことを考えれば,「北極星はあかるい星」というのは昭和の時代の北極星(α UMi)から生まれた神話であることがわかる。『孔子の時代の北極にはめぼしい星はない』から,逆に孔子の時代の北極星も暗い星なのである。
4. まとめ
「孔子の見た北極星」は現代の星表があれば簡単に見つけることができる。しかし,昭和中期まではHR4927が研究者が使う星表に載っていなかったことが理由で発見されることはなかった。また現代では,「北極星は明るい星」という間違った認識により同定された帝星により思考停止が起こり,「孔子の見た真の北極星」を探求することがなくなった。WEBなのでは「古代には帝星が北極星とされ」という記述を見受けるが,北辰を極星(北極星)とする古代の文献はいくつもあるが,帝星を北極星とする古代の文献はひとつも無いことを,そろそろ気づくべきである。帝星は昭和に作られた北極星である。
これにより,現代の天文学者には「北辰=天極」という誤った認識さえあるが,それは中国古代から継承されている考えではない。晋書/隋書/宋史天文志なので継承されているのは「北辰=極星(北極星)」である。例えば,『而極星不移,故曰「居其所而衆星共之」』(極星は動かないから,故に(孔子)曰く,(北辰=極星)そのところにありて衆星これに向かう。)がある。
【注1】眼視可能な明る星を集めた「Bright Star Catalogue」は,ハーバードの改定光度カタログ(1908)をもとに,6.5等以上の星を載せ,1930年に初版,1940年に2版が出ているが,広く使われるようになったのは3版(1964)頃からだろう。4版(1982)はアマチュアでも持つ一般的なカタログとなった。5版(1991)は電子判のみ発行されている。
【注2】香西洋樹著「シェークスピア星物語」(1996)p.93に「日本では,北辰,妙見,ほっきょくさま,などとよばれ,北極に対する信仰がありました。北辰とは,古く中国の影響を受けたもので,天の極にあたり,いうまでもなく北極であって,ここには北極星があります」とあるが,「いうまでもなく」ということで根拠は示されていない。なお,北辰が天極ではなく北極星であることは『福島久雄著『孔子の見た星空』(1997)の検証』を参照。