No. |
Page
|
福島久雄著『孔子の見た星空』(1997)の記述
|
検証
|
1 |
p.1
|
『(図1の)北極点に星がないばかりか,その周辺を見てもおよそ顕著な星はない。今の北極星,こぐま座のαは,遥か彼方である。孔子の見た北天には,「北極星」と呼ぶような星はなかったのである。』
|
『孔子の見た星空』の星図は5.0等星までの星で描かれている。5等星は下の左図のように西洋星図を描く星の明るさである。中国星座を構成する星約1460個の内5.0等星より明るい星は約800個(55%)しかない。光度を5.0等までに絞った星図では中国星座は描けず,そのような西洋の星図で中国の星の話をすること自体が,中国の星座の科学的知識が乏しいことを示している。中国伝来の『格子月進図』の同定星表(pdf)を参照。
中国伝来星図『格子月進図』同定星の等級の分布
等級 | 個数 | 累計 | 累計占有率 |
1.0 | 12 | 12 | 0.8% |
2.0 | 23 | 35 | 2.4% |
3.0 | 105 | 140 | 9.6% |
4.0 | 228 | 368 | 25.1% |
5.0 | 447 | 815 | 55.6% |
6.0 | 430 | 1245 | 85.0% |
6.6 | 212 | 1457 | 99.5% |
7.2 | 8 | 1465 | 100.0% |
注:個数は等級以上の星の個数。例えば最初の行は1.0等以上の星。
『孔子の見た星空』の5等星までの星図が問題ないように見えているのは描いている星座が西洋の星座だからである。西洋の星座のもとになっているアルマゲストの星表には1028個の星しかなく,大半の星が5等星より明るい。
以下の右の中国の星座を描いた星図のように眼視限界等級付近までの星で描くと天極付近にも星(HR4927)が見える。5等星までの星図で孔子の見た北天に「北極星」と呼ぶような星はなかったと断定することは誤り。
北極星を明るい「顕著な星」と思い込み,そう定義した時点で,孔子の時代の天の北極に星はなくなるのである。
同様なことは種村和史(「孔子の見た北辰は「星無き処」だったのか?」東方 205 (1998))p.18-19がその書評で,北辰にあたる星については,孔子の時代の北天を5~6等程度の星まで視野に入れて候補を探すべきと発刊直後に指摘している。しかし,その指摘は無視されてきた。
|
2 |
p.3
|
【5等星までの北天の星と西洋星座(BC500)】
|
【6.6等星までの北天の星と中国星座(BC500)】
青い星が5等星より暗い星 (星座の線は4世紀頃の線)
環境庁の平成30年度冬の星空観察で集まったデータで一番暗いところは自然公園等だが,空の暗さが21.9(等級/平方秒)だった。これから計算される,人間の限界等級は6.6等星となる。したがって,屋外照明の少ない古代では,6.6等ぐらいの星までは見えており,この星図の中心にある孔子の時代の6.0等の北極星(HR4927)は苦もなく見えていたと考えられる。
ただし,広い星域から暗い北極星を特定するのは困難なので,昼間に日の影で南北を測っておき,その線上の特定の高さの星域から北極星を見つけていた。したがって,この暗い北極星は移動中の目印に使われたわけではなく,『(周禮)考工記』にあるように,都城造営の際に北の方位を観測するのに用いられた。
「北極星は目印になる星だから明るい顕著な星である」というのは,現代の天文家の思い込みである。人が移動する時には北の方向の明るい星が目印となりえるが,その場合は天の北極点からの10°程度のズレは問題にならない。古代,天の北極付近に明るい星は無いのだから,人の移動の目印にされたとされる明るい顕著な星は逆に不動とされる北極星ではない。
|
3 |
p.7
|
『幸いこの部分の注が『文選』の李善注に残されている。「鄭玄曰く,北極之を北辰と謂う」と注する。これによれば,鄭玄は北辰を正北極(天の北極)としていることがわかる。』
|
李善は孔子から千年以上後の唐の学者であり,注の記述が変化している。 引用されている後漢の学者・鄭玄の古い文献『(周禮)考工記』の注には「極星謂北辰」(極星は北辰である)とある。また,北極は古代中国では天極(天の北極点)ではなく,星座名であり,この星座・北極に極星が属している。これらを考慮すると李善の鄭玄の注では,「北辰謂北極極星」(北辰は星座北極の極星)と変化した後に,極星が落ちてしまったことになる。
鄭玄の『(周禮)考工記』の注「極星謂北辰」を無視して,北辰と北極星の関係を語ることはできない。『(周禮)考工記』の本文では,日の出,日の入りの影で東西をもとめ,夜北辰とも呼ばれる極星(北極星)で北の方位を定め,朝夕(東西)を正したとしている。したがって,北辰は極星(北極星)と漢代でも認識されており,北辰を正北極とする解釈は単純に誤りである。
|
4 |
p.7-8
|
『魏の何晏(?-249)の『論語集解』には「徳は無為なること猶お北辰の移らずして衆星の之に共(むか)うごとし」とある。「北辰の移らず」といって,北辰が星であるとは言わない。何晏の時にも,星は北極点になかった。』
|
何晏は「北辰はうごかない」とするだけで,北辰が星でないとは書いてない。「北辰が星であるとは言わない」から,星が北極点になかったとするのは,勝手な主張であり,その主張に根拠はなにもない, また,『中国古代の「北極」は星座名である』の図1にあるように,何晏の死んだAD249年にはその時代の北極星HR4852は止まって見える北極点付近にあった。(AD249年に天極より0.36度にあり314年頃に天極と重なる。) 何晏も北辰を極星と考えていたことになる。 何晏の時代の極星(HR4852)は,宋史天文志でも極星の名称である「紐星」として認識されていた。
『在紐星末猶一度有餘。今清臺則去極四度半。』宋史天文志[彙編・第三冊] p.820((その後祖暅[AD500年頃]により不動の処から)紐星はなお一度余りにあるとされた。現在(宋代)清臺が測ったら(紐星の)去極度は四度半だった。)
この記述に適合する星がHR4852である。
【春秋時代からの北極星の変遷】
この北極星の遷移図を見ると,古代から中世の中国に生きた天文官や都城を造営する測量技師は,北極点の移動経路に近い星を北極星として選び,北極点から遠く離れた帝星を全くあてにしていない。これからも北極星は明るさでは決めていないことが明確である。
|
5 |
p.7-8
|
『(朱子は)『論語集注』で「北辰は北極,天の枢なり(原文,天之枢)。其の所に居りて,動かざるなり」という。(中略)したがって,朱子は「北辰」は「北極」なりが,後世に「北辰とは北極星」と解されるとは夢にも思っていなかったであろう。』
|
北極は星座名なので『論語集注』の『北辰,北極,天之樞也。居其所,不動也。』の訳は「北辰は星座・北極の星天之樞なり。そのところに居て,不動なり。」である。もし北辰が天の北極点であれば,不動なのは当たり前で,書く必要も無い。星が不動だから尊ばれたのである。したがって,朱子は「北辰は天之樞の星(北極星)」と書いている。朱子が驚いているのは北辰を自分が説いた北極星ではなく北極(天極)と誤訳されたことである。星座名「北極」については『中国古代の「北極」は星座名である』を参照。
『論語集注』の文は『晉書天文志』の『北極,北辰最尊者也,其紐星,天之樞也。天運無窮,三光迭耀,而極星不移,故曰「居其所而衆星共之」』(星座北極の北辰は最も尊い星である。その(北辰である)紐星は天の枢なり。(中略) (北辰である)極星は不動なので,論語に「そのところに居て・・・」)とほぼ同じであり,これにならったものと考えられる。
|
6 |
p.8-10
|
唐から宋にかけて,<天枢>といわれた,見えるか見えない星(キリン座のΣ1694 5.28等星)があり,これが「極星」とされいたといわれるが,この小さな星を一般の人が目印にしていたかどうかは不明である。
|
この文は「北極星は明るい星」という現代日本の天文家の思い込みにもとづいている。この誤解を根拠に5等星以下の星の検討はなにもなされていない。しかし,暗いΣ1694(HR4893)が極星とされていた以上「北極星は明るい星」は単純に間違いなのである。それを,「一般の人が目印にしていたかどうかは不明」という記述で逃げているだけである。
古代でも現代でも,北極星に関心があるのは観測機器を真北に設置し使う天文家だけで,一般の人がこれを目印に行動することはない,実際,星の位置観測が行われた宋代以降の星図や星表にはこの星Σ1694(HR4893)が全てに描かれている。宋代だけでなく,遅くても春秋時代からの古代の天文家は自分の生きた時代に北極点に近い星が必要だったのである。
また,唐代の星図に描かれている北極星はその前の世代(晋)のHR4852(6.3等星)であり,さらに暗い星であるが,宋代でも伝えられており,宋史天文志ではΣ1694 (HR4893)を「極星」,この星(HR4852)を「紐星」と呼んでいる。渾天儀を設置して観測する天文官や北の方位を測る測量官には星の明るさは関係なかった。
項目1で書いたように,中国星座を構成する星約1460個の内5.0等星より明るい星は約800個(55%)しかない。中国星座を構成する星の約半分は5等星より暗い星である。5.3等星の星を「見えるか見えない星」とした時点で,中国星座の科学的知識がないことがわかる。
ウィキペディア(Wikipedia)では北極星の変遷を以下と説明しているが,光害とあるように,これは現代の北極星[αUMi]から考察した,現代人の机上の空論であることがわかる。ポラリスとりゅう座α星の間に生きた人々のことを無視した誤った考えである。この考えはWikipediaに限らない。
『北極星と認識される条件は、天の北極に近く明るいこと、近接する明るい星がないことである。また、星の視等級が暗い場合、都会では光害などで3等星以下は目立たず、たとえ天の北極近くにあっても有用ではないと考えられる。ポラリスはその固有運動により、紀元前23,600年頃は天の北極に現在より近く、西暦27,800年頃は現在より離れると予想されている。下記の過去や未来の北極星のうち、天の北極から1°以内に収まる星はポラリスとりゅう座α星であり、りゅう座α星は天の北極に最も近くなる。』(Wikipedia)
この誤った考えは,中国唐宋時代にΣ1694(HR4893)が極星(北極星)であったことだけで,否定されるのである。この事実を知らず,自分の考えだけで正しいと信じ書いているのである。
|
7 |
p.34注2
|
『他の文献でも極星を天枢と呼んだ例を見ない。』
|
『中国古代の「北極」は星座名である』の注1に添付したように,福島久雄著『孔子の見た星空』にも引用のある『唐歩天歌』でも五つの星から成る星座・北極の極星である第5星を「天枢」,別名「天之枢」と普通に呼んでいる。
また,船越昭生「マテオ=リッチ作成世界地図の中国に対する影響について」地図 9巻2号(1971)p.7が引用する徐昌治編『聖朝破邪集』に収められる魏澹撰「利説荒唐惑世」の一文に『北極樞星乃在子分。則當居正中。』(星座北極の樞星は子(北)の領域にあり,其れはまったく中心に居る。)がある。魏澹は北斉から隋にかけての学者。
|
唐・歩天歌の記述
(四庫全書・玉海)
|
このように,「天枢」や「天之枢」は古代より星座・北極の第5星の極星の別名である。『唐歩天歌』を引用しているので,これを知らないはずは無く,天枢や天之枢を星と思わせたくない誘導がある。もし,北極が星座名であり,その星座・北極の第5星が極星なのを知らなかったのであれば,そもそも,中国の北極星を語ることはできない。
晋書天文志にも以下の記述がある。
『北極五星,鉤陳六星,皆在紫宮中。北極,北辰最尊者也,其紐星,天之樞也。天運無窮,三光迭耀,而極星不移,故曰「居其所而衆星共之」。』
訳は『星座・北極は五星,星座・鉤陳は六星,皆紫(微)宮の中にある。星座・北極の北辰は最も尊い星である。その(北辰である)紐星は天の枢(星)なり。天の運行に休み無く,三光(太陽,月,星の光)はかわりがわり輝く,しかし,(北辰である)極星は動かず。ゆえに,(論語に)曰く「(極星である北辰は) 其の所におりて定まり、衆星はこれと共にする。」』 この記述から,この時代の「北極」は天の北極点ではなく,5星から成る星座であり,その中に北辰,紐星,天之樞などと呼ばれる極星があることがわかる。
晋書天文志の作者は孔子の書いた「北辰居其所而衆星共之」を,「極星居其所而衆星共之」と説明しているのである。すなわち「北辰=極星=紐星=天之樞」である。
「世界の名著 続1 中国の科学」の『晋書天文志』の和訳では最初の部分を「北極とよばれる五つの星と,鉤陳とよばれる六つの星は,いずれも紫宮の中に位置している。北極は北辰のなかでもっとも尊い星である。その主星は天の枢軸である。(中略)極星は移動しない。そこで『論語』に,「その場所にじっとしていて,もろもろの星はそのまわりをめぐる」というのである。」と訳してある。しかし,これでは前半の北辰は「北の星」と理解されて,後半の孔子が論語でいう極星である北辰と別の意味になってしまっている。当然ながら前半の北辰と後半の論語の北辰は同じ意味でないといけない。原文では「北極,北辰最尊者也,」と区切ってあるように,「最も尊い者(星)」の主語は「北辰」であって「北極」ではない。ここでの北極は,「星座・鉤陳」と区別するための,「星座・北極の」程度の意味である。この訳文には漢語の原文は添付されていないので,このような日本語訳が(星座)北極,極星,北辰の関係を不明瞭にさせてしまっている。
|
|
8 |
p.34注2
|
『晉書』では「北極は北辰、最も尊い者なり。其れ紐星,天の枢(原文,天之枢)なり」とあり,その星を「天枢」とは言わない。
|
この部分は,7項で説明した,晋書・天文志の『北極五星,鉤陳六星,皆在紫宮中。北極,北辰最尊者也,其紐星,天之樞也。天運無窮,三光迭耀,而極星不移,故曰「居其所而衆星共之」。』の最初の部分を訳したものであるが,晋書でいう「北極」は,冒頭に「(星座)北極は五星」とあるように,星座である北極である。鉤陳六星とあわせて読めば間違いようもない。読者に晋書にも「天の北極(天極)が北辰」と書いてあると誤解を与えている。「北極,北辰最尊者也」の訳は「星座・北極の北辰は最も尊い者(星)である」が正しい訳である。
項目7で示したように,『唐歩天歌』では星座・北極の第5星の名を「天枢」,別名「天之枢」とする。「天枢」と「天之枢」は同じ星名なのである。
|
9 |
p.34注2
|
「朱子語類」に「北辰無星,緣是人要取此為極,不可無箇記認,故就其傍取一小星謂之極星(北辰に星は無い。そのため,なにかを取って北極にしようにも不可能で,なんの目印も無い。そこでそのそばからどれかの星を取って極星とする)」とあり,この小星が極星の近くにあることに気付いてはいても,「天枢」とは言わない。
|
『朱子語類』は朱子の弟子がまとめた書であり,同じ『朱子語類』のすぐ次の項に,「北辰是甚星?集注以為『北極之中星,天之樞也』」(北辰はどの星か? 『集注』では「(星座)北極の中星(*注),天の枢なり」とする)とある。すなわち,朱子の弟子であった『朱子語類』の編者も,朱子の『集注』では「北辰は(星座)北極の中星であり,天の枢である」と書いてあると認識しているのである。またその質問をした者も,「北辰」を「星」と認識しているのである。
孔子から2千年後の12世紀の中国においても,孔子の見た北辰は極星(北極星)であることが常識なのである。『孔子の見た星空』は当然この記述も見たうえで書かれているはずである。したがって,朱子の『論語集注』を引用して「北辰は北極(北の天極)」と訳す『孔子の見た星空』は誤訳である。
また,『朱子語類』の「北辰無星,・・・」は極星(北極星)が天の北極点から1度以上離れ不動ではなくなった宋代の極星をもとに論じた話で,孔子の見た極星とは関係がない。すなわち,宋代では「北辰」は「動かない天の北極」か「動く極星」かどちらかを選ぶ議論が生じだ。孔子は北辰はとどまって動かないとしているので,孔子から千五百年後の宋の時代では,「北辰無星」のような考えも出てきた。
*注:中星は星座が南中する時に基準となる星。28宿では距星。ここでは「(星座)北極の中星,天の枢」とあるので,星座・北極の第五星の極星(北極星)となる。
|
10 |
p.10
|
劉實楠は『論語正義』に,清代の学者,陳懋齢の説として「北辰は是れ星無き処」と注している。
|
結局,「北辰は是れ星無き処」と明確に主張しているのは清代の学者のみとなる。中国の星座に描かれる星の数は1500余りで,清代の『儀象考成』のような近代的な星表ができるまで,孔子の見た星空を計算により再現することはできなかったからである。 しかし,『儀象考成』の星表にも限られた数の星(約3千)しか記載されていない。清の学者の主張はこの少ない星数の星表に基づく計算よるものである。『儀象考成』に孔子の時代の北極点に輝いていた北辰・極星(HR4927)はない。これが清代の学者の「北辰は是れ星無き処」の根拠である。
【『儀象考成』による北極点付近の星図(BC500)】
(歳差は現代の計算方式で計算している)
また,清代では宣教師により北極星を持たなかった西洋の天文学に実質移行しており,その情報は古代中国の天文学を推定する上で重要性もない。江戸時代の日本の天文学者の情報源も清の書物なので,清の誤った思想を引き継いている。
例えば,国立天文台の歳差の説明に
「・天文瓊統でも北極=北辰=天極と、北極星=極星とは区別して書いています。」
と書かれているが,これも渋川春海が清の天文書を読んでいただけで,古代中国で「北極=北辰=天極」だった訳ではない。項目7の晋書天文志では孔子の「北辰=極星」としているのだから,「北極=北辰=天極」ではない。晋の時代(3世紀前後)北辰とされる極星(北極星)が天極にあっただけである。
冒頭にあげた,香西洋樹著「シェークスピア星物語」(1996)p93の「北辰=北極」も江戸時代の清の天文学をベースにした考えを引き継いでいるだけである。近代の天文学者は江戸時代より前の天文については無視してきたので,何の知識も無いのである。これはヨーロッパで,ルネサンス以前の科学が科学ではないと思われていたのと同じである。従って,現代の天文学者は,清の時代の「北辰=北極」という考えで,平安時代の北辰信仰を「北極に対する信仰」と誤って理解しているのである。
|
11 |
p.10-11
|
このように,中国では『論語』の『北辰』を北極星とする注釈は見えないが,我が国では,いつ頃からか,戦前の注釈書を含め,最近に至るまでほとんど「北辰」は<北極星>となっている。戦後まもなく出版された口語訳の『論語』でも,「徹頭徹尾朱子の説」によるとしながら,「星の運行する形がちょうど北極星を中心としてこれを取りまいているみたい」と朱子が全く説いていない,また解くはずのない説を述べている。また諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店,以下『大漢和』と略す)でも,「北辰」の項で,「北辰」は「北極星」という。しかもその根拠として朱子の『集注』を引くのは不思議なことだ。
|
上記項目5に書いたように,北極は星座名なので朱子の『論語集注』の訳は「北辰は星座・北極の星天之樞なり」となり,朱子は「北辰は樞星(北極星)」と書いている。日本での注釈書や辞典はこれを根拠にしている。また項目9のように,朱子の弟子がまとめた『朱子語類』にも,「北辰是甚星」(北辰はどんな星?)」と問いがあり,「『論語集注』には「集注以為『北極之中星,天之樞也』」とある」と答えている。中国でも,北辰は天之樞の星であることが常識なのである。
ここの部分は著者の最大に主張する点であるが,その根拠が間違った解釈にもとづいているのである。
例えば項目3に書いたように,著者が引用している後漢の学者・鄭玄でさえ,「極星謂北辰」(極星はいわゆる北辰である)とある。その他,天文志を始め,朱子と同じ年代の北宋の学者・沈括(1031~1095)の引退後の回顧談である『夢渓筆談』(127条)にも「漢以前皆以北辰居天中,故謂之極星。」(漢代以前には誰もが北辰は天の中心にあると考えていたので,これ(北辰)を極星と呼ぶ。) という記述がある。
また,本ページの冒頭にあげたように,中国の『漢語大詞典』でも,北辰を北極星とし,『論語』の北辰をその用例としている。
このように,少し調べれば,中国でも北辰を北極星(中国でいうところの極星)としているのがわかるである。したがって,「中国では『論語』の『北辰』を北極星とする注釈は見えない」は全くの誤りである。ここでは,その誤った解釈に基づく主張をおこなっているだけである。この説明を単純に信じて「北辰を北極星と訳しているのは日本だけ」と広めている読者をみうけるが,盲目的に単行本の主張を信じてはいけない典型的な例である。この本は査読を受けた論文ではない。
|
12 |
p.12
|
孔子の時代には「其の所に居る」といえるような星が北辰付近にはないのである。これらの諸注は,今の天象をもって古(いにしえ)を推し量っており,中国の諸注も取り入れていない,現代の特殊な注といえるだろう。
|
これは「北極星は明るい星なので,古代の天の北極点に北極星は無い」と信じる現代日本の天文家が北極星に関する記述を自分で理解するために,「歳差を知らず,現代の北極星が古代にもあったと思って解釈している」という,よくやる誤った考えである。孔子は自分の時代の北極星の話をしているだけで,現代の天象(北極星)とは全く関係無い。事実,孔子の時代には実際に北極星があっただけである。孔子の時代に北極星があったことを前提に考えると,自分の思い込みだけで,なんの「根拠」もない主張であることが分かる。
現代の5等星までの不完全な推算をもって,古(いにしえ)を推し量っているのが,『孔子の見た星空』なのである。また,このHPの検証を読むと中国の諸注を取り入れていないのは,日本の諸注ではなく,『孔子の見た星空』の方であることもわかるだろう。『孔子の見た星空』が中国の諸注を無視した,誤った解釈にもとづく特異な注なのである。
|
13 |
p.12-13
|
孔子以前の人々は,星のない不思議な「空」(くう)なる部分を中心に,衆星と共に「帝」星でさえも回転することを見ており,そこに神秘的ななにかを認めていたのだろう(7)。
P.34 注7
『呂氏春秋』に「極星,天と倶ともに遊びて,天極は移らず」とある。
|
まず最初の間違いは,「孔子以前の人々」とあるが,『呂氏春秋』は秦の呂不韋が編纂させたもので,秦の始皇8年(紀元前239年)に完成したとされる。したがって,「孔子以前」ではなく,孔子が死んでから約250年も後にまとめられたもので,「孔子以前」ではなく,「孔子以後」である戦国時代末期の「極星」を反映していると考えられる。
「孔子の見た星空」は,「春秋」の題名だけで,孔子以前に極星がすでに天の北極に無く回転していたので,孔子が極星を北辰と思うわけが無いと思わせたいのだろうが,『呂氏春秋』は孔子の時代の2世紀以上も後の書物なので,孔子の時代に天の北極に星がなかった根拠にはならない。
次に原文にある「極星」を「帝」星としているが,帝星は天極から6°以内に近づいたことも無く,さらに帝星を極星と記述した文献も無い。近代において,古代の北極星(極星)をその明るさから帝星と同定した間違いを継承した考えである。帝星はいつの時代でも極星と呼べない「周極星」なので,あえて動くと書く必要もない。
『呂氏春秋』の記述は,孔子が動かないとする北辰である極星(天極の星)でも他の星と共に動いているから,「極星」でも動くと記述されているのである。孔子の時代の「北辰=極星」に同定されるHR4927は孔子の生きた時代には,不動に見える北極点から1°以内であったが(BC500で0.8°),戦国時代末のBC240年頃には天の北極点から2.1°にあり,動いているのが発見されていた。
当該の記述は『吕氏春秋』 第13巻【有始】にあり,神秘的な内容ではなく,当時(戦国時代末)の知識を羅列しているだけであることがわかる。この時代,極星は天極からはずれ,天と共に動くとしているだけである。
『凡四極之內,東西五億有九萬七千里,南北亦五億有九萬七千里。
極星與天俱游,而天極不移。
冬至日行遠道,周行四極,命曰玄明。夏至日行近道,乃參於上。當樞之下無晝夜。白民之南,建木之下,日中無影,呼而無響,蓋天地之中也。』
また,この記述にあるように,中国古代の天の北極点の用語は「天極」であり,「北極」ではない。
|
14 |
p.13
|
<北極星>は日本の造語か
清朝の康煕帝の命により編纂された『佩文韻府』(はいぶんいんぷ)(1711年完成)に<北極星>という語は見えない。したがって,中国の古典,おびただしい経史子集の書籍を通じて,<北極星>という語は一応見えないと思ってよいということである。果たして,『大漢和』『漢語大詞典』もその項目を立てて,時代によって北極星は変わると説明しているが,用例を示していない。
そもそも,この二千数百年来,現在のように北極間近に実際に明るい星があることはめずらしいことであった。唐宋の時代に,きりん座の∑1694は北極に非常に近づいたが,いかんせん5.28等星で見えるかどうかの星であったし(注略),一方,いわゆる<帝星>こぐま座のβ(2等星)の,北極への最接近は紀元前1100年頃で,その時でさえ天の北極から6.5度離れている。時代を遡れば,紀元前2800年頃に0.1度と,今の北極星より理想的な近さの星,りゅう座のαトゥバン,すなわち3.7等星の<右枢>があるが,これは三星五帝時代であって(図略),孔子の時代では図1のように北極から大分はなれている。
|
これもトリッキーな文である。中国では古代から近世まで「北極星」のことは「極星」と呼ばれていたことを知らない読者は,中国には「北極星」という言葉も無かったと誤解してしまう。
事実,『月刊 星ナビ』(2011年8月号)の『金井三男のこだわり天文夜話・第百二十七話 北極星は日本製!? 』p.84-85で「さらに福島先生のお話では,日本天文学に多大な影響を与えた古代中国でも,北極星という具体的な星名はなかった。有名な孔子の『論語』に出てくる「北辰」(注10)も,北極星のことではなく,単に天の北極の意味しかないという。当時(紀元前500年頃)天の北極には,北極星が無かったことによると(注11)と考えられる。また,西暦1200年頃の朱子の時代においてでも,「北辰は北極なり」とされているだけで,北極星とは解釈されていない,日本の論語などの注釈書は,一般に北辰=北極星としているが,これは明らかに時代(あるいは歳差という減少)を無視した誤訳であるという。中国においては少なくとも清朝まで(注12)「北極星」という名前がなかったらしい。」とあり,中国に「北極星」という言葉がないことが,北辰が北極星でない根拠として話が展開されている。
さらに,注15では「古代日本には北辰信仰があり,また平安遷都直後から朝廷では北辰祭が毎年旧暦3月3日と9月9日と行われ,かつ現在も毎年元旦に四方拝という,天皇の先祖たる天帝を礼拝する行事に於いて,まず初めに北に向かって一礼することが続けられているが,この場合の北辰も北極星ではない。たまたま現在,その方向に歳差と固有運動の関係で,北極星がふらついているだけなのだ」と「孔子の見た星空」にも記述の無いことを「北辰北極説」をもとに発展させている。「孔子の見た星空」でさえ,唐の時代に極星(中国での北極星,きりん座の∑1694)があったことを認めているのに。北辰は天の北極ではないので,注15の「北辰信仰の北辰は天の北極」【注】という説明もまったくの誤りである。このように天文家は「北辰=天極」という誤った考えを,民俗学にも及ぼそうとしているが,その根拠はなにもない。
『佩文韻府』には北極星は中国の呼び名である『極星』として掲載され,晋書天文志の「孔子の北辰の論語」を含む記述も用例とされている。同じ星の項目なので著者も当然これを確認しているはずであるが無視し,「中国の古典,おびただしい経史子集の書籍を通じて,<北極星>という語は一応見えないと思ってよいということである。」と言い切っている。たぶん,このことを当時問われていれば,確かに「極星」はあるが,「北極星」はないと答えたと思われる。さらに,『佩文韻府』には『北辰星』という言葉すら記載されている。
中国で「極星」を「北極星」とよぶようになったのは,日本から多くの西洋言語の訳語が輸入された明治以降と思われるので,「中国の古典,おびただしい経史子集の書籍を通じて,<北極星>という語は一応見えないと思ってよい」も当然なのである。
いずれにせよ,孔子のいう「北辰」が中国で「極星」(Pole Star)とよばれる「星」であるかどうかが問題であって,それより2千年も過ぎた16世紀以降の「北極星」という単語の発生とは何の関係も無い話である。これらの記述も北極星は明るい現代の北極星しかないとの思い込みに起因している。
「<北極星>は日本の造語か」にこだわったのか初めは分からなかったが,『漢字海』を読んでいて分かった。日本の漢語辞典には,【北辰】の訳に【北極星】と書いてある。確かに,【北極星】は16世紀以降に生まれた名前なので,【北辰】のを表す中国語としては適切ではない。中国語であれば【極星】と書くべきである。しかし,漢語辞典は和訳なので【北極星】と書かざるをえない。そこを,『孔子の見た星空』はうまく利用している。すなわち,日本の辞典は古代中国に無かったはずの「北極星」という言葉を使っているというロジックである。しかし,これをトリックと思わず真面目に,中国には「北極星」(中国では極星)の認識自体が無かったと思い書いているのであれば,中国の北極星のことを全く知らずに,中国の北極星を論じていたことになる。
改めて種村和史著の書評『孔子の見た「北辰」は「星無き処」だったのか』を読み直すと,まず最初に『「いわゆる<北極星>は,日本製の名称かと思える」(15頁)と述べ,これを「北極星」の概念,つまりある星を北天の星々の中心として認識するという考え方そのものが,古代中国にはなかったとする著者の説の一つとしているが,これは誤解である。』と間違いとして指摘してる。
【注】北辰信仰について
「北辰信仰の北辰は天の北極」は『孔子の見た星空』には記載がなく, 香西洋樹著「シェークスピア星物語」(1996)p.93に「北極に対する信仰」とあり,これを受けたものかもしれない。平安のはじめのころ,毎年旧暦3月3日と9月9日と行われた北辰祭は『御燈』ともよばれ,北の山に灯火を捧げ北辰(北極星)を祀る儀式である。祀るものが『無』の『天の北極点』であれば,北の山に灯りは必要なく,かえって邪魔である。この灯火が「暗くて素人には判別できない北極星」を模していることは明らかである。現代の天文家は江戸時代の清の天文学をベースとした古代の天文学の知識しかないので,北辰=北極(点)という短絡した考えしかない。項目7の晋書天文志では孔子の北辰を極星としているので,平安時代の北辰信仰の北辰を北極とするのは誤りである。
|
15 |
p.15
|
いわゆる「北極星」は,日本製の名称かと思える。英語学の権威,木原研三氏の御教授によると,英語の北極星pole starのO・E・Dの初例は一五五五年である由,これは<勾陣大星>が北極に近づき北極星と言われ始めた時期を示しているのではないか。ラテン語のstella polarisは,古典ラテン語には存在しないとのことである。ただ,同氏は,古典ラテン語のpolus(英語のpoleの語源)には「北極」と「北極星」と両方の意味が辞典に載っているといわれる。
|
ここでは,「北極星」という言葉が,現在の北極星[αUMi]が北極点に近づいた16世紀以降ヨーロッパや日本で生まれたという自説を印象づけている。
しかし,中国では「北極星」は古代から「極星」と呼ばれており,それは英語のpole star(極星)と全く同じである。「北」がついた「北極星」と,実際に北極点にある星の様態とは全く関係ないことである。
中国では天の北極点は古代(漢・晋以前)では「天極」と呼んでいた。晋書では「北極」は星座の名称だった。江戸時代に中国から天文知識を輸入した日本では,「北極」と「極星」が合わさった「北極々星」が略して「北極星」と呼ばれるようになった。しかし,中国では古代から2千年以上にわたり「極星」が北極星を示す固有名詞であり,南極に極星が無いのも知られていたので,改めて「北極星」と呼ぶ必要がなかっただけである。たとえば,英語で「pole star」(極星)を改めて「noth pole star」(北極星)と呼ぶ必要がないのと同じである。天文の知識が無かった江戸時代の日本では,その認識が無かったので,「北極星」という単語を造語したのだろう。
さらに,漢語辞典では「極」という文字自体に北極星という意味があるとする。「大極殿」の「極」などがその用例だろう。古代に北極星がなければ大極殿もない。『孔子の見た星空』はこのような,自説に不利となる周辺の事実も完全に無視している。「太極殿」の名を初めて用いたのは曹魏洛陽(220-265)とのことなので,そのころほぼ北極点にあった北極星(HR4852)をモデルにしたものであろう。日本の
歴史の世界でも「大極殿」は天の中心にある北極星をみたてたものとされている。天文家はそのころ天の中心から9度余りも離れた周極星の「帝星(βUMi)」が古代の北極星だったとしてきたが,間違いであるのは明白である。現代の天文家は「北極星は明るい星」と決めつけ,これらの事実を無視してきたのである。
日本で北極星とよばれる極星が日本で初めて認識されたわけではないのと同様に,Pole starとよばれる「北極星」は,英語圏で初めて認識されたわけではない。ラテン語のstella polarisは,古典ラテン語には存在しないことを指摘しているが,polus(英語のpoleの語源)に「北極星」の意味があるだけで,古代ローマにも北極星があったことを証明している。
ラテン語辞書「OXFORD LATIN DICTIONARY」(8th ed. 1982)p.1398に建築家ウィトルウィウス(BC80-70~AD15)の著作から「stella quae dicitur polus」(極とよばれる星)という記述を引用している。「polus」は,ギリシャ語の極星πόλος(ポルス)が語源だろう。古代ローマでも中国と同様「polus」(極)という言葉自体に,北極星という意味があった。したがって,古代中国と同様に古代ローマやギリシャの時代にも北極星は認識されていた。
|
16 |
p.15-16
|
最近,香西洋樹氏は,シェークスピアの「ジュリアス・シーザ」で,シーザが「俺は北極星のように不動だ」という場面を引き,シェークスピアが歳差を知らなかったため,シーザが言うはずのない台詞を書いたと述べておられる。
|
ここでは古代に北極星はなかったという自説を補強するために,古代ローマ関連の記事を引用している。しかし,『古代ギリシャでも孔子の見た北辰を北極星と呼んでいた』で書いたように,古代ローマや古代ギリシャにも極(Pole)と呼ばれる星はあった。ヨーロッパでも極星は中世に造られた言葉ではない。調べれば極星はラテン語辞書(polus)やギリシャ語辞書(πόλος)にも古代の用例を添えて載っている。このように現代の天文学者には古代には「北極星」は無く,一部にはその言葉自体も無かったという誤った認識がある。
シェークスピアに歳差の知識が無かったから,現代の北極星が古代にも北極に輝いていたとシェークスピア考えたのだろうとしているが,これも項目12同様,「北極星は明るい星」が真理であると信じる現代日本の天文家が古代の北極星に関する記述を自分で納得するためによくやる誤った解釈である。ローマ時代に「極星」(polus)とよばれる星があった以上,シーザも「北極星のように不動だ」と言った可能性はある。したがって,「シーザが言うはずのない台詞」に根拠は無いのである。
香西洋樹著「シェークスピア星物語」(1996)p.77-78は『孔子の見た星空』と同じ『StellaNavigator』でシーザ時代(BC43),シェークスピアの時代(1599),現代(1996)の星空を5等星以上の星で再現し説明したうえで,「結論として,シーザ時代の北極には「北極星」と言えるような明るい星はなかったことになります。」としている。この本で使われている星図も5等星以上の星で描かれている。『StellaNavigator』で5等星以上の星を示して,「北極星」は無かったと言っても,それは根拠にならないのである。これは翌年の出版である福島久雄著『孔子の見た星空』と全く同じ手法であり,『孔子の見た星空』(1997)は「シェークスピア星物語」(1996)から着想した可能性が高い。すなわち,『孔子の見た星空』は,「(孔子)の時代には「明るい北極星」はないから,北極星であるはずがない。」という現代の天文家の先入観をベースに,これまでの解釈になんの根拠もなく改編をおこなったことになる。( )内の人物は古代ならだれでもあてはまることになる。
しかし,現代の星空と比べようが,古代には「暗い」北極星が天の北極にあっただけで,現代の北極星とはなんの関係も無い。『孔子の見た星空』のような書が生まれたのも,「北極星は明るい」という思い込みのもと,現代人が誤って同定した「帝星(βUMi)」を古代の北極星と信じ,古代の北極星に関する科学的研究が行われてこなかったのが原因である。
|
17 |
p.219
|
<附録> 星の名句五五〇選
一 北天の星
(前略)「北辰」について,梁の何遜は「北辰星」と詠うが,これは仮想の不動の星をいうのであろう。
【北辰】
2 思君無轉易 何異北辰星
[梁・何遜 閨怨 玉台詠五]
3 北辰微暗少光色 四星煌煌如火赤
[唐・白居易 司天台 集三]
|
漢詩,和歌,俳句などは,それが詠まれた時代の人々の常識を基礎とし,語句の説明なしに,簡潔に紡ぐ文学である。したがって,当時の常識として,「北辰」が「天の北極」なのか,「北極星」なのかは,書いて無くても自ずと現れてしまうのである。
梁・何遜(AD518頃没)の漢詩「思君無轉易 何異北辰星」は「君を想うことが変わらないことは,北辰星と異ならない」と言った内容である。「孔子の見た星空」は仮想した星と解釈しているが,この詩は,シェークスピアのセリフと同じで,何遜が仮想しただけでは成立せず,何遜の時代の「読者」に北辰が動かない星(極星,北極星)という一般常識がないと成立しない漢詩である。すなわち,このひとつの漢詩だけでも,中国古代の人々には,『論語』により,北辰は北極点ある動かない星であるという知識が共有されていたことがわかる。何遜が「北辰」に「星」を加えたのは,意味を変えずに,詩の形式上5文字にする必要があったからである。
このように「孔子の見た星空」は「北辰」が「星」と書いてあっても,「仮想」とし,自説に都合の良い解釈を行っている。もし,北辰が「天の北極」として人々の知識が共有されていたのであれば,北辰に「星」を付けた時点で,項目11の『朱子語類』の質問者のように,「北辰星とは何星か?」となる。著者は古代に天の北極には星は無かったと主張しているのだから,読者は当然「北辰星」は天極近くにある「帝星」などを想像するので,「ふらふらする想い」の意味となり,漢詩自体が成り立たない。このように,この漢詩は「北辰が天極にある動かない星」という常識があるから「星」を付けても成立している。読者は「北辰は天の北極点だけど,北辰星は北辰にある仮想の不動の星」という,「無」から「星」を生むような都合の良い解釈はしてくれないのである。
また,白居易の漢詩では,「北辰微暗少光色」(北辰は薄暗く,光が少ない)があげてあるが,注釈は無い。北辰がもし天の北極点であればそれは「無の空間」なのであるから「無光」であり,「薄暗く,光が少ない」と詠むはずがない。白居易も,『論語』により,北辰が星であるという一般常識のもと,「微暗少光色」と詠っているのである。著者自身唐代の極星(キリン座のΣ1694 5.28等星)は,「見えるかみえない星」と認めているから,この漢詩にはさすがに注釈を思いつかなかったのだろう。漢和辞典には「北辰は北極星」としたうえで,この漢詩を引いているものもある。さらに,この漢詩の前文には「昔聞西漢元成間」とあり,前漢の元帝や成帝の時代の話である。したがって,古来から北辰は星と考えられていた。
人々の常識の上に詠まれる漢詩においても,「孔子の見た星空」の説く「北辰は天の北極点」を否定している。このような自説に都合の悪い漢詩も選ばれているのは,この附録の漢詩の選者が著者ではないからである。
海部宣男著『天文歳時記』(2008)p.109-100で白居易の漢詩の部分を「北辰 微暗(びあん)にして 光色(こうしょく)少なく」と訳し,注で「[北辰]天の北極。ここでは帝位を表す星」としている。「天の北極」を「帝位を表す星」と解釈することはできず,この注は誤りである。前の漢詩の解釈と同じく,北辰が天の北極であれば,一般常識にはない「仮想の星」を白居易が勝手に想定していることになる。また,p.108では江戸時代の俳句「北辰と村でいはれて惑ふかき」に「日本では北辰といえば北極星だが,ここでは村びとがあおぐえらい学者をさす。」とする。これと同じく書けば,「中国では北辰は「天の北極」であるが,ここでは「帝位を表す星」」と注しておきながら,中国でも北辰が北極星ではないか?と疑問を持たなかったことが不思議である。
白居易の漢詩への注の矛盾は,天文家の立場から『孔子のみた星空』により,北辰の訳を原訳の「北極星」から「天の北極」に単純に改編したためと考えられる。冒頭の中国の『漢語大詞典』の用例にもこの漢詩が引かれているように,この漢詩の北辰は中国でも「北極星」である。
したがって,もとの注は「[北辰]北極星。帝を表す星」である。こう考えると,この漢詩の北辰も『論語』の北辰であることが分かる。「天の北極」が「帝位を表す星」でないのは明らかである。
そもそも,北辰が天極の無の場所だと,北辰の暗さで政府を批判するというこの漢詩は生まれていないのである。
ここで検証したように,科学的とされた『孔子のみた星空』は,科学的なのは説明の手法だけで,その個々の記述の内容に根拠は無い。古代中国及び日本の記述は「北辰は北極星」という常識のもとに書かれているので,「北辰は天の北極」という現代の迷信による解釈ではボロがでてくるのである。
|