福島久雄著「孔子の見た星空」(1997)の検証



 福島久雄著「孔子の見た星空」(1997)については,孔子のいう北辰とは特定の星を指したものではないことを歳差現象により科学的に論証したという評価がある。しかし,その内容を検証すると,論拠とする星図や古代の文献の解釈などのほとんどに問題がある。この本に孔子が北天に見た北辰が北極星ではないとする根拠はなにも無い。自分の主張に沿った誤った解釈をしているだけである。

 実際には2000年代以降に発刊され,改定された「漢字海 第二版二刷(2006)p.183」,「漢字海 第三版六刷(2014) p.194」や「新漢語林 初版七冊(2010)p.193」なのど漢語辞典でも「北辰」の訳は「北極星」(論語・為政)のまま改定されていない。北辰を北極点とする根拠は無いのである。 2000年に初版が発刊された『漢字海』の編集方針には,「日本の既出辞典をもとに改編するような手順は退けた。それにかわって,まず中国で刊行された同規模の古漢語辞典数種に採用される語義とその用例を徹底的に検討し,用例の原典に逐一当たって,返り点と現代日本語訳をほどこした基礎原稿を作成した。」とあるので,これらの漢語辞典は和訳されているだけで,中国の辞典と同じである。したがって,「孔子の見た星空」p.10にあるような,「北辰を北極星とする訳は日本だけ。」という事実も無い。

 このページは「孔子の見た北辰は天の北極」に根拠は無いなどをわかりやすいように対比形式に書いたものである。

No. Page 福島久雄著「孔子の見た星空」(1997)の記述 検証
1 p.1  『(図1の)北極点に星がないばかりか,その周辺を見てもおよそ顕著な星はない。今の北極星,こぐま座のαは,遥か彼方である。孔子の見た北天には,「北極星」と呼ぶような星はなかったのである。』  「孔子の見た星空」の星図は5.0等星までの星で描かれている。5等星は下の左図のように西洋星図を描く星の明るさである。中国星座を構成する星約1460個の内5.0等星より明るい星は約800個(55%)しかない。光度を5.0等までに絞った星図では中国星座は描けず,そのような西洋の星図で中国の星の話をすること自体が中国の星座の知識が浅いことを示している。中国伝来の『格子月進図』の同定星表(pdf)を参照。
 『孔子の見た星空』の5等星までの星図が問題ないように見えているのは描いている星座が西洋の星座だからである。西洋の星座のもとになっているアルマゲストの星表には1028個の星しかなく,大半の星が5等星より明るい。
 以下の右の中国の星座を描いた星図のように眼視限界等級付近までの星で描くと天極付近にも星(HR4927)が見える。5等星までの星図で孔子の見た北天に「北極星」と呼ぶような星はなかったと断定することは誤り。 北極星を「顕著な星」と思い込み,そう定義した時点で,孔子の時代の天の北極に星はなくなるのである。
 同様なことは種村和史(「孔子の見た北辰は「星無き処」だったのか?」東方 205 (1998))p.18-19がその書評で,北辰にあたる星については,孔子の時代の北天を5~6等程度の星まで視野に入れて候補を探すべきと発刊直後に指摘している。しかし,その指摘は無視されてきた。
2 p.3
【5等星までの北天の星と西洋星座(BC500)】
【6.6等星までの北天の星と中国星座(BC500)】
青い星が5等星より暗い星 (星座の線は4世紀頃の線)

 環境庁の平成30年度冬の星空観察で集まったデータで一番暗いところは自然公園等だが,空の暗さが21.9(等級/平方秒)だった。これから計算される,人間の限界等級は6.6等星となる。したがって,屋外照明の少ない古代では,6.6等ぐらいの星までは見えており,この星図の中心にある孔子の時代の6.0等の北極星(HR4927)は苦もなく見えていたと考えられる。
 ただし,広い星域から暗い北極星を特定するのは困難なので,昼間に日の影で南北を測っておき,その線上の特定の高さの星域から北極星を見つけていた。したがって,この暗い北極星は移動中の目印に使われたわけではなく,『(周禮)考工記』にあるように,都城造営の際に北の方位を観測するのに用いられた。

 「北極星は目印になる星だから明るい顕著な星である」というのは,現代の天文家の思い込みである。

3 p.7 『幸いこの部分の注が『文選』の李善注に残されている。「鄭玄曰く,北極之を北辰と謂う」と注する。これによれば,鄭玄は北辰を正北極(天の北極)としていることがわかる。』  李善は孔子から千年以上後の唐の学者であり,注の記述が変化している。
 引用されている後漢の学者・鄭玄の古い文献『(周禮)考工記』の注には「極星謂北辰」(極星は北辰である)とある。また,北極は古代中国では天極ではなく,星座名であり,この星座・北極に極星が属している。これらを考慮すると李善の鄭玄の注では,「北辰謂北極極星」(北辰は星座北極の極星)と変化した後に,極星が落ちてしまったことになる。
 鄭玄の『(周禮)考工記』の注「極星謂北辰」を無視して,北辰と北極星の関係を語ることはできない。『(周禮)考工記』の本文では,日の出,日の入りの影で東西をもとめ,夜極星で北の方位を定め,朝夕(東西)を正したとしている。したがって,北辰は極星(北極星)と漢代でも認識されており,北辰を正北極とする解釈は単純に誤りである。
4 p.7-8 『魏の何晏(?-249)の『論語集解』には「徳は無為なること猶お北辰の移らずして衆星の之に共(むか)うごとし」とある。「北辰の移らず」といって,北辰が星であるとは言わない。何晏の時にも,星は北極点になかった。』  何晏は「北辰はうごかない」とするだけで,北辰が星でないとは書いてない。「北辰が星であるとは言わない」から,星が北極点になかったとするのは,勝手な主張であり,その主張に根拠はなにもない,
 また,『中国古代の「北極」は星座名である』の図1にあるように,何晏の死んだAD249年にはその時代の北極星HR4852は止まって見える北極点付近にあった。(AD249年に天極より0.36度にあり314年頃に天極と重なる。) 何晏も北辰を極星と考えていたことになる。
 何晏の時代の極星(HR4852)は,宋史天文志でも極星の名称である「紐星」として認識されていた。 『在紐星末猶一度有餘。今清臺則去極四度半。』宋史天文志[彙編・第三冊] p.820((その後祖暅[AD500年頃]により不動の処から)紐星はなお一度余りにあるとされた。現在(宋代)清臺が測ったら(紐星の)去極度は四度半だった。)  この記述に適合する星がHR4852である。
【春秋時代からの北極星の変遷】  この北極星の遷移図を見ると,古代から中世の中国に生きた天文官や都城を造営する測量技師は,北極点の移動経路に近い星を北極星として選び,北極点から遠く離れた帝星を全くあてにしていない。これからも北極星は明るさでは決めていないことが明確である。
5 p.7-8 『(朱子は)『論語集注』で「北辰は北極,天の枢なり(原文,天之枢)。其の所に居りて,動かざるなり」という。(中略)したがって,朱子は「北辰」は「北極」なりが,後世に「北辰とは北極星」と解されるとは夢にも思っていなかったであろう。』  北極は星座名なので『論語集注』の『北辰,北極,天之樞也。居其所,不動也。』の前半の訳は「北辰は星座・北極の星天之樞なり」である。したがって,朱子は「北辰は天之樞星(北極星)」と書いている。朱子が驚いているのは北辰を自分が説いた北極星ではなく北極(天極)と誤訳されたことである。星座名「北極」については『中国古代の「北極」は星座名である』を参照。
 『論語集注』の文は『晉書天文志』の『北極,北辰最尊者也,其紐星,天之樞也。』(星座北極の北辰は最も尊い星である。その(北辰である)紐星は天の枢なり。)とほぼ同じであり,これにならったものと考えられる。
6 p.8-10  唐から宋にかけて,<天枢>といわれた,見えるか見えない星(キリン座のΣ1694 5.28等星)があり,これが「極星」とされいたといわれるが,この小さな星を一般の人が目印にしていたかどうかは不明である。  この文は「北極星は明るい星」という現代日本の天文家の思い込みにもとづいている。この誤解を根拠に5等星以下の星の検討はなにもなされていない。しかし,暗いΣ1694(HR4893)が極星とされていた以上「北極星は明るい星」は単純に間違いなのである。それを,「一般の人が目印にしていたかどうかは不明」という記述で逃げているだけである。古代でも現代でも,北極星に関心があるのは観測機器を真北に設置し使う天文家だけで,一般の人がこれを目印に行動することはない,実際,星の位置観測が行われた宋代以降の星図や星表にはこの星Σ1694(HR4893)が全てに描かれている。
 また,唐代の星図に描かれている北極星はその前の世代(晋)のHR4852(6.3等星)であり,さらに暗い星であるが,宋代でも伝えられており,宋史天文志ではΣ1694 (HR4893)を「極星」,この星(HR4852)を「紐星」と呼んでいる。
 渾天儀を設置して観測する天文官や北の方位を測る測量官には星の明るさは関係なかった。筆者が「孔子の見た北辰」に同定した極星(HR4927)も6.0等星であるが,晋代の北極星(HR4852)よりは明るい。
7 p.34注2 『他の文献でも極星を天枢と呼んだ例を見ない。』
 『中国古代の「北極」は星座名である』の注1に添付したように,福島久雄著「孔子の見た星空」にも引用のある『唐歩天歌』でも五つの星から成る星座・北極の極星である第5星を「天枢」,別名「天之枢」と普通に呼んでいる。
 また,船越昭生「マテオ=リッチ作成世界地図の中国に対する影響について」地図 9巻2号(1971)p.7が引用する徐昌治編『聖朝破邪集』に収められる魏澹撰「利説荒唐惑世」の一文に『北極樞星乃在子分。則當居正中。』(星座北極の樞星は子(北)の領域にあり,其れはまったく中心に居る。)がある。魏澹は北斉から隋にかけての学者。
唐・歩天歌の記述
(四庫全書・玉海)
 このように,「天枢」や「天之枢」は古代より星座・北極の第5星の極星の別名である。『唐歩天歌』を引用しているので,これを知らないはずは無く,天枢や天之枢を星と思わせたくない誘導がある。もし,北極が星座名であり,その星座・北極の第5星が極星なのを知らなかったのであれば,そもそも,中国の北極星を語ることはできない。

晋書天文志にも以下の記述がある。 『北極五星,鉤陳六星,皆在紫宮中。北極,北辰最尊者也,其紐星,天之樞也。天運無窮,三光迭耀,而極星不移,故曰「居其所而衆星共之」。』
訳は『星座・北極は五星,星座・鉤陳は六星,皆紫(微)宮の中にある。星座・北極の北辰は最も尊い星である。その(北辰である)紐星は天の枢(星)なり。天の運行に休み無く,三光(太陽,月,星の光)はかわりがわり輝く,しかし,(北辰である)極星は動かず。ゆえに,(論語に)曰く「(極星である北辰は) 其の所におりて定まり、衆星はこれと共にする。」』
この記述から,この時代の「北極」は天の北極点ではなく,5星から成る星座であり,その中に北辰,紐星,天之樞などと呼ばれる極星があることがわかる。
 晋書天文志の作者は孔子の書いた「北辰居其所而衆星共之」を,「極星居其所而衆星共之」と説明しているのである。すなわち「北辰=極星=紐星=天之樞」である。

 「世界の名著 続1 中国の科学」の『晋書天文志』の和訳では最初の部分を「北極とよばれる五つの星と,鉤陳とよばれる六つの星は,いずれも紫宮の中に位置している。北極は北辰のなかでもっとも尊い星である。その主星は天の枢軸である。(中略)極星は移動しない。そこで『論語』に,「その場所にじっとしていて,もろもろの星はそのまわりをめぐる」というのである。」と訳してある。しかし,これでは前半の北辰は「北の星」と理解されて,後半の孔子が論語でいう極星である北辰と別の意味になってしまっている。当然ながら前半の北辰と後半の論語の北辰は同じ意味でないといけない。「北極,北辰最尊者也,」と区切ってあるように,「最も尊い者(星)」の主語は「北辰」であって「北極」ではない。ここでの北極は,「星座・鉤陳」と区別するための,「星座・北極の」程度の意味である。このような日本語訳が北極,極星,北辰の関係を不明瞭にさせてしまっている。

8 p.34注2 「朱子語類」に「北辰無星,緣是人要取此為極,不可無箇記認,故就其傍取一小星謂之極星(北辰に星は無い。そのため,なにかを取って北極にしようにも不可能で,なんの目印も無い。そこでそのそばからどれかの星を取って極星とする)」とあり,この小星が極星の近くにあることに気付いてはいても,「天枢」とは言わない。  『朱子語類』は朱子の弟子がまとめた書であり,同じ『朱子語類』のすぐ次の項に,「北辰是甚星?集注以為『北極之中星,天之樞也』」(北辰はどの星か? 『集注』では「北極の星,天の枢なり」(注)となす)とある。すなわち,『朱子語類』の著者も朱子の『集注』では「北辰は(星座)北極の星であり,天の枢である」(*注)と書いてあると認識しているのである。すなわち,孔子から2千年後の12世紀の中国においても,北辰は極星(北極星)であることが常識なのである。したがって,朱子の『論語集注』を引用して「北辰は北極(北の天極)」と訳す「孔子の見た星空」は誤訳である。

 また,『朱子語類』の「北辰無星,・・・」は極星(北極星)が天の北極点から1度以上離れ不動ではなくなった宋代の極星をもとに論じた話で,孔子の見た極星とは関係がない。すなわち,宋代では「北辰」は「動かない天の北極」か「動く極星」かどちらかを選ぶ議論が生じだ。孔子は北辰はとどまって動かないとしているので,宋の時代では,「北辰無星」のような考えも出てきて当然である。

 (*注)この弟子は「中」の字を加えているので,星座・北極の知識がなく,「北極の中心の星,天の枢なり」と思っている可能性も高い。このように星座の知識の無い者では「星座の北極」と「北の天極である北極」との混同も起きる。「孔子の見た星空」の誤った解釈も,この混同が発端と考えられる。しかし,いずれにせよ,この弟子は『論語集注』では北辰は星(極星,北極星)と書いてあると認識している。

9 p.10  劉實楠は『論語正義』に,清代の学者,陳懋齢の説として「北辰は是れ星無き処」と注している。  結局,「北辰は是れ星無き処」と明確に主張しているのは清代の学者のみとなる。中国の星座に描かれる星の数は1500余りで,清代の『儀象考成』のような近代的な星表ができるまで,孔子の見た星空を計算により再現することはできなかったからである。
 しかし,『儀象考成』の星表にも限られた数の星(約3千)しか記載されていない。清の学者の主張はこの少ない星数の星表に基づく計算よるものである。『儀象考成』に孔子の時代の北極点に輝いていた北辰・極星(HR4927)はない。これが清代の学者の「北辰は是れ星無き処」の根拠である。
 また,清代では宣教師により古代に北極星を持たなかった西洋の天文学に移行しており,その情報は古代中国の北極星を推定する上で重要性もない。
 
【『儀象考成』による北極点付近の星図(BC500)】
(歳差は現代の計算方式で計算している)
10 p.10-11  このように,中国では『論語』の『北辰』を北極星とする注釈は見えないが,我が国では,いつ頃からか,戦前の注釈書を含め,最近に至るまでほとんど「北辰」は<北極星>となっている。戦後まもなく出版された口語訳の『論語』でも,「徹頭徹尾朱子の説」によるとしながら,「星の運行する形がちょうど北極星を中心としてこれを取りまいているみたい」と朱子が全く説いていない,また解くはずのない説を述べている。また諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店,以下『大漢和』と略す)でも,「北辰」の項で,「北辰」は「北極星」という。しかもその根拠として朱子の『集注』を引くのは不思議なことだ。   上記項目5に書いたように,北極は星座名なので朱子の『論語集注』の訳は「北辰は星座・北極の星天之樞なり」となり,朱子は「北辰は樞星(北極星)」と書いている。日本での注釈書や辞典はこれを根拠にしているのである。また項目8のように,朱子の弟子がまとめた『朱子語類』にも,「北辰是甚星」(北辰はどんな星?)とあり,『論語集注』には「集注以為『北極之中星,天之樞也』」とある。北辰は天之樞の星であることが常識なのである。

 ここの部分は著者の最大に主張する点であるが,その根拠が間違った解釈にもとづいているのである。

 例えば項目3に書いたように,著者が引用している後漢の学者・鄭玄でさえ,「極星謂北辰」(極星はいわゆる北辰である)とある。その他,天文志を始め,朱子と同じ年代の北宋の学者・沈括(1031~1095)の引退後の回顧談である『夢渓筆談』(127条)にも「漢以前皆以北辰居天中,故謂之極星。」(漢代以前には誰もが北辰は天の中心にあると考えていたので,これ(北辰)を極星と呼ぶ。) という記述がある。

 このように,少し調べれば,中国で北辰が極星(中国でいうところの北極星)であるという解釈は多くある。したがって,「中国では『論語』の『北辰』を北極星とする注釈は見えない」は全くの誤りである。ここでは,その誤った解釈に基づく主張をおこなっているだけである。この説明を単純に信じて「北辰を北極星と訳しているのは日本だけ」と広めている読者をみうけるが,盲目的に翻訳本を信じてはいけない典型的な例である。この本は査読を受けた論文ではない。

【追記】なぜ項目12にある「<北極星>は日本の造語か」にこだわったのか分からなかったが,今日『漢字海』を読んでいて分かった。日本の漢語辞典には,【北辰】の訳に【北極星】と書いてある。確かに,【北極星】は16世紀以降に生まれた名前なので,【北辰】のを表す中国語としては適切ではない。中国語であれば【極星】と書くべきである。しかし,漢語辞典は和訳なので【北極星】と書かざるをえない。そこを,「孔子の見た星空」はうまく利用している。すなわち,日本の辞典は中国に無いはずの「北極星」という言葉を使っているというロジックである。

11 p.12  孔子の時代には「其の所に居る」といえるような星が北辰付近にはないのである。これらの諸注は,今の天象をもって古(いにしえ)を推し量っており,中国の諸注も取り入れていない,現代の特殊な注といえるだろう。  これは「北極星は明るい星なので,古代の天の北極点に北極星は無い」と信じる現代日本の天文家が古代の北極星に関する記述を自分で理解するためによくやる誤った解釈である。孔子は自分の時代の北極星の話をしているだけで,現代の天象(北極星)とは全く関係無い。事実,孔子の時代には実際に北極星があった。

 現代の5等星までの不完全な推算をもって,古(いにしえ)を推し量っているのが,「孔子の見た星空」なのである。また,この検証を読むと中国の諸注を取り入れていないのは,日本の諸注ではなく,「孔子の見た星空」の方であることもわかるだろう。「孔子の見た星空」が中国の諸注を無視した,誤った解釈にもとづく特異な注なのである。

12 p.13  <北極星>は日本の造語か
 清朝の康煕帝の命により編纂された『佩文韻府』(はいぶんいんぷ)(1711年完成)に<北極星>という語は見えない。したがって,中国の古典,おびただしい経史子集の書籍を通じて,<北極星>という語は一応見えないと思ってよいということである。果たして,『大漢和』『漢語大詞典』もその項目を立てて,時代によって北極星は変わると説明しているが,用例を示していない。
 これもトリッキーな文である。中国では古代から近世まで「北極星」のことは「極星」と呼ばれていたことを知らない読者は,中国には北極星は無かったと誤解してしまう。『佩文韻府』には北極星は中国の呼び名である『極星』として掲載され,晋書天文志の 「孔子の北辰の論語」を含む記述も用例とされている。同じ星の項目なので著者も当然これを確認しているはずであるが無視し,「中国の古典,おびただしい経史子集の書籍を通じて,<北極星>という語は一応見えないと思ってよいということである。」と言い切っている。たぶん,このことを当時問われていれば,確かに「極星」はあるが,「北極星」はないと答えたと思われる。

 中国で「極星」を「北極星」とよぶようになったのは,日本から多くの西洋言語の訳語が輸入された明治以降と思われる。なので現代の漢語辞典に記載されていても不思議ではなく,古文の用例が無いのも当然である。

 いずれにせよ,孔子のいう「北辰」が中国で「極星」(Pole Star)とよばれる「星」であるかどうかが問題であって,それより2千年も過ぎた16世紀以降の「北極星」という単語の発生とは何の関係も無い話である。これらの記述も北極星は明るい現代の北極星しかないとの思い込みに起因している。

13 p.15  いわゆる「北極星」は,日本製の名称かと思える。英語学の権威,木原研三氏の御教授によると,英語の北極星pole starのO・E・Dの初例は一五五五年である由,これは<勾陣大星>が北極に近づき北極星と言われ始めた時期を示しているのではないか。ラテン語のstella polarisは,古典ラテン語には存在しないとのことである。ただ,同氏は,古典ラテン語のpolus(英語のpoleの語源)には「北極」と「北極星」と両方の意味が辞典に載っているといわれる。  ここでは,「北極星」という言葉が,現在の北極星[αUMi]が北極点に近づいた16世紀以降ヨーロッパや日本で生まれたという自説を印象づけている。
 しかし,中国では「北極星」は古代から「極星」と呼ばれており,それは英語のpole star(極星)と全く同じである。「北」がついた「北極星」と,実際に北極点にある星の様態とは全く関係ないことである。
 中国では天の北極点は古代(漢・晋以前)では「天極」と呼んでいた。晋書では「北極」は星座の名称だった。江戸時代に中国から天文知識を輸入した日本では,「北極」と「極星」が合わさった「北極々星」が略して「北極星」と呼ばれるようになった。しかし,中国では古代から2千年以上にわたり「極星」が北極星を示す固有名詞であり,南極に極星が無いのも知られていたので,改めて「北極星」と呼ぶ必要がなかっただけである。たとえば,英語で「pole star」(極星)を改めて「noth pole star」(北極星)と呼ぶ必要がないのと同じである。天文の知識が無かった江戸時代の日本では,その認識が無かったので,「北極星」という単語を造語したのだろう。現代の日本人は「北極星」を「北極の星」(star of the north pole)と理解しているが,実際には「北極の極星」(pole star of the north pole)から生まれた「馬から落馬」的単語であり,「北」を付ける必要は全く無い。
 さらに,漢語辞典では「極」という文字自体に北極星という意味があるとする。「大極殿」の「極」などがその用例だろう。古代に北極星がなければ大極殿もない。「孔子の見た星空」はこのような,自説に不利となる周辺の事実も完全に無視している。「太極殿」の名を初めて用いたのは曹魏洛陽(220-265)とのことなので,そのころ北極点に近づきつつあった北極星(HR4852)をモデルにしたものである。

 日本で北極星とよばれる極星が日本で初めて認識されたわけではないのと同様に,Pole starとよばれる「北極星」は,英語圏で初めて認識されたわけではない。ラテン語のstella polarisは,古典ラテン語には存在しないことを指摘しているが,polus(英語のpoleの語源)に「北極星」の意味があるだけで,古代ローマにも北極星があったことを証明している。 ラテン語辞書「OXFORD LATIN DICTIONARY」(8th ed. 1982)p.1398に建築家ウィトルウィウス(BC80-70~AD15)の著作から「stella quae dicitur polus」(極とよばれる星)という記述を引用している。「polus」は,ギリシャ語の極星πόλος(ポルス)が語源だろう。したがって,古代中国と同様に古代ローマやギリシャの時代にも北極星は認識されていた。

14 p.15-16  最近,香西洋樹氏は,シェークスピアの「ジュリアス・シーザ」で,シーザが「俺は北極星のように不動だ」という場面を引き,シェークスピアが歳差を知らなかったため,シーザが言うはずのない台詞を書いたと述べておられる。  ここでは古代に北極星はなかったという自説を補強するために,古代ローマ関連の記事を引用している。しかし,『古代ギリシャでも孔子の見た北辰を北極星と呼んでいた』で書いたように,古代ローマや古代ギリシャにも極(Pole)と呼ばれる星はあった。ヨーロッパでも極星は中世に造られた言葉ではない。調べれば極星はラテン語辞書(polus)やギリシャ語辞書(πόλος)にも古代の用例を添えて載っている。このように現代の天文学者には古代には「北極星」は無く,一部にはその言葉自体も無かったという誤った認識がある。
 シェークスピアに歳差の知識が無かったから,現代の北極星が古代にも北極に輝いていたとシェークスピア考えたのだろうとしているが,これも項目11同様,「北極星は明るい星」が真理であると信じる現代日本の天文家が古代の北極星に関する記述を自分で理解するためによくやる誤った解釈である。古代には「暗い」北極星が天の北極にあっただけで,現代の北極星とはなんの関係も無い。そう考えればシェークスピアは歳差を理解していたことになる。

 

     福島久雄著「孔子の見た星空」(1997)の影響を受けたと思われる書物として加地伸行著「論語」(2004)がある。
    以下同様にその内容を検証する。
No. Page 加地伸行著「論語」(2004)の記述 検証
附 1 p.34注2) 「北辰」には,北極・天心・天枢なのどの呼び名もある天の中心。孔子が生きていた周王朝の都から北の空へ向かって地平線から上へ三十六度の位置が北辰であり,星を指すものでは無い。 ここの部分は,福島久雄著「孔子の見た星空」(1997)の思想そのものであり,記述の根拠となる文献を示していない。
また,「北極」は古代では星座の名前である。「北辰は北極」を引用したのは唐の学者李善であり,上記項目3のように,引用元の後漢の学者・鄭玄は古い文献『(周禮)考工記』の注にで「極星謂北辰」(極星は北辰である)としている。
「天枢」は上記項目7のように『歩天歌』などでは星座北極の極星である第五星を指す名前である。
「天心」はどの文献で述べられているのか不明だが,意味は「天の中心」であり,『周髀算経・下』では,天枢(極星)も天の中心(北極点)にあり,「天之中」にありとされる。
したがって,これらの呼び名も北辰が星ではないという根拠にはならない。
附 2 p.34注2) (北辰は)星を指すものでは無い。しかし,位置は空間であり捉えにくいので,分かりやすくするため,北辰のすぐそばにある星群(五個の星)を北辰にみたてて,その中の一つを「極星」と呼び,北辰の代替者としている。北極星ということばはそこから来ている。 この部分は上記項目8にある,朱子の弟子がまとめた『朱子語類』による,AD1200年頃の宋の時代の考え。この時代の極星は北極点からはずれていることは分かっていた。この考えは孔子からすでに約2千年も後の時代のものである。
附 3 p.35注3) 北辰は位置であるから不動だが,北極星は星であるので不動ではなく,一夜にほんのわずかではあるが移動することは,古代中国の天文学ですでに分かっていた。 北極星は歳差により移り変わっているので,不動とされる時代と,動いているとされる時代がある。

①上記項目附 2『朱子語類』の朱子(1200没)の時代の北極星は動いていた。

②南北朝の時代(AD500)年頃に,北極星は北極点より1度離れていることが観測された。

③上記項目7『晋書天文志』には,「しかし,(北辰である)極星は動かず。ゆえに,(論語に)曰く「(極星である北辰は) 其の所におりて定まり、衆星はこれと共にする。」とあり,晋(265-420)の時代には天文学者も極星は不動としている。

④またその前の時代の『呂氏春秋』には「極星與天俱游,而天極不移」(極星は天とともに動いて、北極点は動かず)とある。これはこの時代に極星でも動くことが発見されたためである。最初から天極からはずれているのであれば「極星」とは呼ばれない。

⑤孔子の時代の北辰は不動であった。

したがって,星だから不動ではないとは言えない。宋史天文志によると,北極点より1度ぐらい離れると動いていると認識されたようである。
『前世皆以極星爲天中,自祖暅以璣衡窺考天極不動處,乃在極星之末猶一度有餘。』(③前の世には皆極星は天の中心にあると考えていた。②祖暅(500年代初の人)は自ら璣衡(渾天儀)の窺穴で天極の不動の場所を観測したところ、極星より一度余りのところにあった。)【宋史天文志[彙編・第三冊] p.804】

下図の北極星に同定される星の北極点からの角度は,これらの記述に合致する。



2021/01/17 加地伸行著「論語」検証を追記。
2021/01/13 項目8,11を追加,14を修正
2021/01/09 項目4に星図追加
2020/12/31 項目12に『佩文韻府』追記
2020/12/29 項目7に晋書天文志追記
2020/12/25 項目7に「魏澹」追記
2020/12/24 項目7に画像追加
2020/12/18 項目10追記
2020/12/17 項目13,14追記
2020/12/16 初版 UP
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