飛鳥時代の正方位直線道路は「山当て道路」ではない


 

 
1. はじめに

     最近、野上道男著「奈良盆地における古代正方位道路の測量方法を推定する」「地図」Vol.64 No.1(2026)p.1-16を見たので、そのコメントを少ししてみます。

     野上氏の推定している山当て方法は、当時冬至の太陽の日の出線を求め、その線上に正三角形をの一辺をあてると、三角形の中線が東西線の方向となり、若干(0.5度程度)東で北方向に振れるらしい。その東西線上に横大路を敷設し、決められた間隔毎に直角方向にある山に向かって南北道路を敷設したということらしい。(私の理解)


2. 下ツ道の例
     図2は野上氏の論文に掲載のデータを用いて描いた下ツ道の例。測定点は国土地理院のサイトを利用して読み取ったとされています。この図のように、下ツ道は、大和平野南部の葦原峠を目標に南北直線道路を敷設したと推定しています。

     しかしこの図は、下ツ道が直線道路であることを前提に作成されていることに問題があります。以前から考えられていた、平城京の朱雀門と丸山古墳の北側全面を結ぶ直線と思想的には変わっていません。

     下ツ道は橿原市等の発掘調査で、藤原京内の下ツ道の方位の振れが、北部の振れの倍近く違うのが分かっています。しかも、その方位の振れは、この野上氏の地上面の道路から得られたデータにも現れています。

 

図1 下ツ道の例
[推定線と式は筆者がExcel標準機能で追加した。]


 

3. 下ツ道の区分

     図3は発掘結果にしたがって、筋違道との交差点以北(A区間)と以南(B区間)で分けた図です。B区間は軽のチマタまでとしています。これから分かるように、この簡略図でも、A区間の方位は約30分西偏、B区間は約40分西編となり、方位が違うことははっきりわかります。なので葦原峠は目標ではありませんでした。葦原峠は下ツ道を直線と仮定して推定線を引いた時に、偶然その直線上にある山にすぎません。また冬至に測った同じ方位で測量し敷設したのであれば、こんなに明確に違いが出るわけもないのです。

     さらに、想定されている横大路は基準ではなく、筋違道が基準になっているため、下ツ道が出来た頃には、まだ横大路は整備されていなかったことになります。

     したがって、野上氏が主張される測定法が用いられた可能性はありません。


 

図2 下ツ道区分図
[推定線と式は筆者がExcel標準機能で追加した。]

 

4. まとめ

     中国の春秋時代から中世までの都城の造営には,北極星による方位測定法が用いられていた。北極星による測量法は天命思想の基盤技術でした。正方位の都城は天命を受けて統治する天命思想を具現化する王朝儀礼の舞台でした。日本での宮の正方位化は単に造営法式の伝来ではなく,天命思想の伝来を意味していました。

     日本ではながらく、古代の方位は太陽による測量とされていたため,宮の正方位化と大極殿などが関連付けされることがありませんでした。しかし,実際には舒明天皇の時代に天命思想に基づく正方位の造営法式や基盤技術が一体として伝来し,導入されるとともに,大王を神聖化した,天命思想の王朝儀礼を行う「天皇」が生まれていました。書紀に事責の記載がないため、存在が薄い舒明天皇ですが,最初の遣唐使の派遣により,天皇の直接統治につながる重要な基盤を築いていました。古事記が推古朝で終わっているように,次の舒明朝は天皇を戴く新しい王朝のはじまりでした。

     したがって、天命思想が伝来した632年以降、日本でも天皇関連の正方位の宮殿・宮や直線道路を、天命思想に基づく北極星で測量することは当然のことでした。その他の方法で測量することは、思想的にも間違いです。北極星と28宿距星を用いる正方位測量法は、時期によらず、一晩で真北に近い方位が得られる測定法です。 当てる山など気にせずに、目当ての距星が南中した時に、北極星の方向を「北」として測っていたにすぎません。

      なお下ツ道の方位や年代推定の詳細はこちらを参照ください。


2026/08/21 掲載

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