都城の造営方位測定法はインディアンサークル法ではない


     
    1. はじめに

       平城京や平安京のように,日本の都城は真北を向く正方位で方形の都市である。その方位をどのような方法で求めたかについては未だ判明していない。HPや論文などでは,太陽を用いたインディアンサークル法が用いられたと推定するものがほとんどであり,古代の文献である『周髀算經』や『周礼・考工記』にその記載があることを根拠としている。しかし,これらの原文にあたると,そうは書かれていない。おそらく原文を読まずに推定しているのが現状と思われる。ここではその原文を解説する。

     
    2. 『周髀算經(北極璿璣四游)』の記述

       『中国天文学・数学集』に収録の橋本敬造訳の『周髀算經』では,太陽を使うインディアンサークル法の記述は位置が校正されているので本文のように見えるが,原文では以下の赤字の部分である。前後の文章が続いているので,明らかに間違った部分に挿入されていることがわかる。おそらく赤字の部分は黒太字の部分の北極中大星(帝星)を使ったインディアンサークル法を補足する注釈文であり,本文では無いと思われる。また『北極璿璣四游』で天極にある星座を「北極」と呼んでいるので,後漢以降の記述である。
       いずれにせよ『周髀算經』の太陽を使用したインディアンサークル法はその事実だけの記述で,さらに古い『周礼・考工記』を参照しているにすぎない。

       おそらく,帝星を用いるインディアンサークル法についても,方位測定に用いられたという実態はなく,以下の天球を説明する論理説明の一部でしかない。その理由は,太陽を使う場合より目見当で影を引く分,精度が落ちるのは明らかである。また帝星でこの観測ができるのは一年で限られた時期しかない。太陽を使う場合より観測条件が限られ,精度の劣る方法をあえて用いる必然性は無い。この方法が論文などで用いられた可能性のある観測方法として取り上げられるのは,「古代に北極星は無かった」という誤認からである。

        【欲知北極樞,璿周四極。常以夏至夜半時北極南游所極,冬至夜半時北游所極,冬至日加酉之時西游所極,日加卯之時東游所極。此北極璿璣四游。正北極璿璣之中,正北天之中。正極之所游,冬至日加酉之時,立八尺表,以繩繫表顛,希望北極中大星,引繩致地而識之。又到旦,明日加卯之時,復引繩希望之,首及繩致地而識其端,相去二尺三寸。故東西極二萬三千里,其兩端相去正東西。中折之以指表,正南北。加此時者,皆以漏揆度之。此東、西、南、北之時。其繩致地所識,去表丈三寸,故天之中去周十萬三千里。何以知其南北極之時?以冬至夜半北游所極也北過天中萬一千五百里,以夏至南游所極不及天中萬一千五百里。此皆以繩繫表顛而希望之,北極至地所識丈一尺四寸半,故去周十二萬四千五百里,過天中萬一千五百里;其南極至地所識九尺一寸半,故去周九萬一千五百里,其南不及天中萬一千五百里。此璿璣四極南北過不及之法,東、西、南、北之正勾。

        周去極十萬三千里。日去人十六萬七千里。夏至去周一萬六千里。夏至日道徑二十三萬八千里,周七十一萬四千里。春、秋分日道徑三十五萬七千里,周一百七萬一千里。冬至日道徑四十七萬六千里,周一百四十二萬八千里。日光四極八十一萬里,周二百四十三萬里。從周南三十萬二千里。

        璿璣徑二萬三千里,周六萬九千里。此陽絕陰彰,故不生萬物。其術曰,立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。晷之兩端相直者,正東西也。中折之指表者,正南北也。極下不生萬物。何以知之?冬至之日去夏至十一萬九千里,萬物盡死;夏至之日去北極十一萬九千里,是以知極下不生萬物。北極左右,夏有不釋之冰。

        春分、秋分,日在中衡。春分以往日益北,五萬九千五百里而夏至。秋分以往日益南,五萬九千五百里而冬至。中衡去周七萬五千五百里。中衡左右冬有不死之草,夏長之類。

        此陽彰陰微,故萬物不死,五穀一歲再熟。

        凡北極之左右,物有朝生暮獲。】 [周髀算經・下巻]


    3. 『周礼・考工記』の記述
        古代の都城造営の理想とされた『周礼・考工記』には,都城の方位の測定法として以下の記述がある。

        置槷以縣。視以景。為規識日出之景與日入之景。晝參諸日中之景。夜考之極星。以正朝夕。】(槷(表:ノーモン)に重りを垂らし垂直に置き,その影を観測する。日の出から日の入りまで影の印をつけ,円を描く。昼は2つの日中の影を照らし合わせ(東西を決め)。夜は極星(北極星)を観測し(南北の方位を定め),その結果をもって朝夕(東西)を正す。) [周礼考工記・匠人営国条]

       確かに太陽を使ったインディアンサークル法が明記されている。しかし,インディアンサークル法で求めた朝夕(東西)の方位を,夜に極星(北極星)を見て決めた北の方位により修正するとしている。『周礼・考工記』を参照している論文では,春秋戦国の時代に北極星は無いという認識により,この最も重要な部分を故意に省略しているが,インディアンサークル法は北極星で北の方位を決める際の補助でしか無い。すなわち,都城の造営方位はインディアンサークル法では求めていないということである。

       なお,『周礼・考工記』のいう春秋・戦国時代の極星は筆者の同定した孔子の見た北辰のHR4927(6.0等星)である。ちなみに,後漢はじめの学者鄭玄はこの『周礼・考工記』の極星に「極星謂北辰。」(極星とは北辰のことをいう。)という注釈をつけている。後漢の時代にも孔子の見た北辰はこの『周礼・考工記』にある北極星であることを認識していた。福島久雄『孔子の見た星空』(1997)の「孔子の時代に北極星はなく,北辰は天の北極点である」という主張は,このような孔子の生きた春秋時代の北極星に関する基本的な文献を全く考慮しておらず,誤りであることは明らかである。

       ではなぜ太陽を用いたインディアンサークル法が北極星で北の方位を決める際の補助とされたのか。その理由は北極星が暗かったからである。北天から暗い北極星を特定するのは難しいが,太陽を用いたインディアンサークル法で仮の北の方位が求まれば,その鉛直線上の特定の仰角の狭い範囲を探せばよい。
       おそらく,インディアンサークル法が都城の方位測定に用いられなかったのは,誤差による測定方位の分布が大きく,安定した高精度の方位は得られないことが判明していたからだろう。

       また,帝星が誤って北極星に同定されているため,帝星を用いる上記『北極璿璣四游』の方法も極星法とよび混同している論文も見受けるが,明らかに誤認である。帝星を極星と呼ぶ古代の文献は無い。


    4. まとめ
       
      『周礼・考工記』によれば,古代都城の造営方位の測定に用いられていたのは極星(北極星)であり,太陽を用いたインディアンサークル法ではない。

     

     図1 BC500年の北天の星空と北極星の変遷 (HR番号-等級 星名)
    注:小さい●はその年代での北極点の位置。

    これらの北極星の同定については数学史研究 (236号)『孔子の時代からの古代北極星の変遷の研究』で発表済。


2020/11/16 図1追加
2020/11/11 掲載

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