古代の都城造営の理想とされた『周礼・考工記』には,都城の方位の測定法として以下の記述もある。
【置槷以縣。視以景。為規識日出之景與日入之景。晝參諸日中之景。夜考之極星。以正朝夕。】(槷(表,棒:ノーモン)に重りを垂らし垂直に置き,その影を観測する。日の出から日の入りまで影の印をつけ,円を描く。昼は2つの日中の影を照らし合わせ(東西を決め)。夜は極星(北極星)を観測し(南北の方位を定め),それをもって朝夕(東西)を正す。) [周礼考工記・匠人営国条]
確かに日影を用いたインディアンサークル法が書かれている。しかし,インディアンサークル法で求めた朝夕(東西)の方位を,夜に極星(北極星)で求めた北の方位を以て正すとしている。『周礼・考工記』を引用している論文では,春秋戦国時代の天極には北極星は無かったという誤認識により,この最も重要な「極星で正す」を故意に省略しているが,インディアンサークル法は北極星で方位を決める際の補助でしか無い。すなわち,都城の造営方位はインディアンサークル法では求めていないということである。
なお,『周礼・考工記』のいう春秋・戦国時代の極星は筆者の同定した孔子の見た北辰のHR4927(6.0等星)である。ちなみに,後漢はじめの学者鄭玄はこの『周礼・考工記』の極星に「極星謂北辰。」(極星は北辰をいう。)という注釈をつけている。後漢の時代にも孔子の見た北辰はこの『周礼・考工記』にもある北極星であることを認識していた。福島久雄『孔子の見た星空』(1997)の「孔子の時代に北極星はなく,北辰は天の北極点である」という主張は,このような孔子の生きた春秋時代の北極星に関する基本的な文献を全く考慮しておらず,誤りであることは明らかである。
ではなぜ太陽を用いたインディアンサークル法が北極星で北の方位を決める際の補助とされたのか。その理由は北極星が暗かったからである。北天から暗い北極星を特定するのは難しいが,太陽を用いたインディアンサークル法で仮の北の方位が求まれば,その鉛直線上の特定の仰角の狭い範囲を探せばよい。
おそらく,インディアンサークル法が都城の方位測定に用いられなかったのは,誤差による測定方位の誤差の分布が大きく,安定した高精度の方位が得られなかったからだろう。インディアンサークル法の誤差は,サークルを描く地面の水平度,棒の垂直度,棒の太さ,サークルの大きさ,サークルを描く線の太さ等々から発生する。星を見てその方位を直接測る場合より誤差の分布が大きいことは明白だろう。さらに,平地で高さ1mぐらいの位置から見通しのとれる距離は3km余りである。長い見通し距離を取りたい場合,櫓(やぐら)を組んで測定する必要があるが,その櫓の上で大きなインディアンサークルを描いて測定するのは無理がある。
なお,帝星が誤って北極星に同定されているため,帝星を用いる上記『北極璿璣四游』の方法も極星法とよび混同している論文も見受けるが,明らかに誤りである。太陽を用いる方法より精度の悪い帝星を用いた方法で太陽を用いて測定した方位を訂正する理由はない。逆に,帝星が極星(北極星)では無い一つの証拠でもある。