7. 中ツ道の造営方位の検証



 

1.はじめに

 中ツ道の方位に関しては,2000年代になるまで発掘による遺構の発見が無かったため,詳しい推定はほぼ行われていない。
 井上和人は「平城京下層中ツ道の検証」飛鳥文化財論攷 (2005)中で,遺存地割に基づく中ツ道の方位の検討を行い,奈良市教育委員会第180次調査で見つかった,平城京内の側溝遺構を中ツ道の東側溝であると推定した。ここでは,その後中ツ道の遺構の発掘が行われているため,井上和人(2005)p.182の推定を検証する。

 

2.中ツ道の推定ルートの比較

 図1の青線のルートが井上和人(2005)p.182で推定されたルートである。遺存地割に基づいたルートで推定し,最後には京道地割を通過し,第180次調査の発掘点に至るルートとなっている。
 しかし,2000年代に入り中ツ道の遺構が池田町,櫟本町及び喜殿町などで発見され,中ツ道は奈良県道51号天理環状線に沿っていることが判明している。したがって,この3つの発掘点を結ぶ中ツ道は,HJ180次発掘点を通らないことが明らかになっている。

 

図1 中ツ道のルート図(世界測地系)


 また村屋神社近くの発掘地点はちょうど井上和人(2005)の推定ルート上にあるが,中ツ道の遺構は発見されていない。こちらは図2の写真にあるように,C点の位置が東すぎるためである。遺存の道を基準にすると,C点はあと50mあまり西による必要がある。したがって,同様にD点も数10m西に寄る必要がある。

 これらにより,必ずしも遺存地割の真下に造営当初の中ツ道があるわけでは無いことになる。

 また、『日本書紀』の壬申の乱の記述に、「故宣塞社中道」とあり、村屋神社に中ツ道が通っていたことを伝えている。したがって、図1の「筆者推定の中ツ道推定ルート」にある発掘地点と村屋神社の位置はほぼ確定しており、実ルートはこの推定ルート上にあることになる。

 

図2 中ツ道のルート図

[Google Earth Proより]
黄色:想定中ツ道
緑色:井上和人(2005)の推定ルート
オレンジ:中ツ道実ルート
紫色:藤原京への接続路

3.中ツ道の遺構とされた藤原京東二坊大路

 図1の平城京東二坊大路の遺構は「中ツ道の遺構」として発表されているが,この図をみると,中ツ道は100mも西にあるので,この遺構は中ツ道ではない。これも「3古道は同時期に等間隔で敷設された」という説の弊害である。下ツ道から2118mにある三輪神社は中ツ道の始点ではなく,藤原京東二坊大路上にある神社である。

 

4.中ツ道の造営方位

 図1の池田町発掘点など3点から天満神社までの9点を結ぶ線の直角座標の傾きは26.5分(=1/129.67)となり,真北への補正6.2分を加えると,中ツ道の実ルートの造営方位は真北から32.7分の西偏となる。井上和人(2005)p.183は,極端な場所を除くと中ツ道の方位は33分から1度5分の西偏としているが,図1のオレンジのルートにより,藤原京への接続路(約90m)と平城京への接続路(約30m)を除くと,方位はほぼ一定であることが分かる。『古代都城の正方位測定法がインディアンサークル法ではない根拠』で,都城が真北を測る方法で測量されていないことが明らかになったように,中ツ道(約32.7分西偏),下ツ道(約24.3分西偏),難波大道(約26.3分東偏)のような南北直線道路の測量も固有の振れのある測量方法であったことが分かる。また,上ツ道が下ツ道とほぼ同じ方位で敷設されていることを考慮すると,中ツ道と下ツ道には約8分の振れの差があるので,同時期の敷設ではないと推定できる。

 

[使用したデータ]

 井上和人(2005)p.182のデータ(旧国土座標系から世界測地系へは国土地理院WEBで変換した。)
番号 場所 旧X座標 旧Y座標 世界X座標 世界Y座標 緯度 経度
I 平城京左京2条4坊11坪 -145800.00 -16657.50 -145453.52 -16918.79 34.688710 135.815344
H 京南辺条3里 -149900.00 -16608.00 -149553.51 -16869.33 34.651749 135.815966
G 添上郡京南4条3里34坪 -152514.00 -16580.00 -152167.50 -16841.41 34.628183 135.816322
F 山辺郡7条4里4坪 -154474.00 -16561.00 -154127.50 -16822.45 34.610514 135.816568
E 山辺郡10条4里6坪 -156760.00 -16531.00 -156413.49 -16792.46 34.589905 135.816940
D 城下郡賂東16条4里6坪 -160560.00 -16459.00 -160213.48 -16720.51 34.555648 135.817799
C 十市郡賂東21条4里2坪 -163531.00 -16417.00 -163184.48 -16678.59 34.528864 135.818314
B 十市郡賂東21条4里6坪 -163850.00 -16364.00 -163503.48 -16625.59 34.525989 135.818898
A 十市郡賂東24条4里2坪 -165480.00 -16348.00 -165133.45 -16609.63 34.511295 135.819104

 

 筆者の使用データ
番号 場所 旧X座標 旧Y座標 世界X座標 世界Y座標 緯度 経度
@ 地割・京道 -149712.50 -16866.50 34.650315 135.815999
平城京接続路北 -150535.03 -16863.22 34.642900 135.816052
平城京接続路南 -150604.09 -16828.79 34.642278 135.816429
A 天理市池田町発掘地点 -150755.00 -16825.00 34.640917 135.816473
B 天理市櫟本町発掘地点 -153330.00 -16811.60 34.617703 135.816670
C 天理市喜殿町発掘地点 -154034.50 -16803.50 34.611352 135.816772
D 山邊御縣神社 -156753.53 -16779.80 34.586840 135.817085
E 初王子神社 -157819.41 -16766.05 34.577231 135.817256
F 天皇神社 -158152.62 -16765.27 34.574227 135.817271
G 素盞男神社 -159275.49 -16767.31 34.564104 135.817271
H 村屋神社 -161032.08 -16746.53 34.548268 135.817532
I 天満神社 -162650.66 -16740.91 34.533676 135.817625
藤原京接続路北 -162973.23 -16733.60 34.530768 135.817711
藤原京接続路南 -163507.82 -16639.27 34.525950 135.818749
J 三輪神社 -165126.20 -16621.42 34.511360 135.818975
K 東二坊大路(発掘地点) -165430.00 -16630.74 34.508621 135.818879

注:Aの池田遺跡は奈良市教育委員会(2011)p.98の中ツ道西側溝とみられる遺構図より道中心を推定した。B櫟本(いちのもと)チトセ遺跡は天理市教育委員会(2020/02)p.4の中ツ道東側溝の検出状況写真より道中心を推定した。同(2020/09)p.2は発掘現場の概略図,p.4には側溝の拡大写真がある。座標(緯度経度)は国土地理院の電子地図WEBから読み取り世界測地系に変換した。櫟本は斑鳩まで続く北の横大路とよばれる東西道が通っていた場所でもある。Cの喜殿町の遺跡は天理市教育委員会(2016)p.31の東側溝中心から道の中心を推定した。なお,道幅は20mでは近似式との誤差が大きいので16mと想定した。

参考文献
「池田遺跡・中ツ道推定値の調査 第1次」奈良市教育委員会 奈良市埋蔵文化財調査年報 2008 p.97-98 (2011)
「名阪道路(天理地区)埋蔵文化財発掘調査報告書 2016」 天理市教育委員会 (2016)
「天理市埋蔵文化財センターだより」 天理市教育委員会 Vol.29 (2020/02)
「天理市埋蔵文化財センターだより」 天理市教育委員会 Vol.30 (2020/09)
「田原本町埋蔵文化財調査年報12 2002年度」田原本町教育委員会(2013)p.27 (村屋神社近くの発掘報告書)



2023/10/25 記述追加
2021/08/13 東二坊大路(発掘地点)追加
2021/07/28 UP
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