13. 「占星臺」と新羅の「贍(瞻x)星臺」について



 天武天皇の「占星臺」と新羅の「贍(瞻x)星臺」について考える。
 「瞻星臺」の記録は朝鮮の正史である『三国史記』(1145完成)には無く、それよりもさらに140年後の『三国遺事』(一然編,1280年代完)の善徳女王16年(647)の記録に「錬石築贍星臺」(石をみがいて贍星臺を築く。朝日新聞社刊『完訳 三国遺事』(1976)p.104-105の原文。)とあるのみで、漢字も「瞻」の字が違う。「贍」は「たりる/ゆたか」という意味。[漢字海 2版p1359] 「瞻」は「見る」という意味。[漢字海 2版p991] なので、「瞻星臺」であれば「星見楼」という意味となるが、「贍星臺」は「星に満ちた楼」という意味となり、「星の観測」までの拡大解釈はできない。(「目」は眼に通じているが、「貝」は財に通じている。) 視覚的にも楼から「星」を見上げるという感覚ではなく、星にかこまれた「楼」を地上から見上げるという雰囲気である。 朝日新聞社刊『完訳 三国遺事』(1976)p.104-105の原文には「贍(瞻?)星臺」としてあり、後代にに読み替えられ可能性がある。『三国遺事』には「瞻星臺」としか記載されていない近代の刊行本もあるが、「」方向への変化は可能性が少ないと思われる。【注1】 したがって、「贍(瞻x)星臺」を星見台と解釈し、「占星臺」も星見台には変わりないとして、単純に同一施設と考えるのにはそもそも根拠が無い。

 天武天皇の「占星臺」(675)についてはこの「贍星臺」を読み替えた「瞻星臺」が日本に伝わったものとする説がある。それを最初に唱えたのは和田雄治で、現地を訪れ、その結果報告として天文月報(明治43年2月号)に「慶州瞻星臺の記」を発表している。しかし、天文台とした和田自身「瞻星臺に於て観測したる事項は如何、又之に使用したる機器は如何、是れ最も余輩に興味ある問題なりと雖も惜しむらくは一も之を記したる者無し、・・・」と「瞻星臺」での天文観測について何の記録もないことを認めている。にもかかわらず、「日本に於いて始て天文臺を設けたるは慶州瞻星臺より二十九年後にあり、制度通に「天武天皇白鳳三年正月庚戌始興占星臺」とあり、而して白鳳三年は新羅文武王の十五年(世紀675年)なり、「瞻」と「占」とを対照するも我国の天文臺は新羅より輸入されたること殆ど疑いの存ずるの余地なしと謂うべし、況んや欽明推古の両朝既に暦法の傳來あるに於いてをや。」として、年代の近さや暦法の伝来から天文台も朝鮮から伝来を類推しているだけである。また、和田は「瞻星臺」が歴史書には「贍星臺」と書かれていたのは知らなかったのだろう。
 その後この説には疑問が出されたが確証何も無く、現在でも「瞻星臺」の文化的背景や目的/用途には韓国でも結論が出ていない。そもそも「星見楼」ではないのだから、当然といえば当然である。少なくとも「瞻星臺」での天文観測機器を使用した観測は否定されているようである。また、新羅での漏刻の設置は日本より遅い718年(斉藤国治(1995)p.269)なので、天文観測の技術的必要性も善徳女王時代には無い。

 天武天皇の「占星臺」は読み替えた「瞻星臺」とは違い陰陽道という文化的背景も明確であるため、(読み替え後の)星見を見るための楼台であることだけの理由で同一視はできない。もし新羅から「瞻星臺」が伝来したとすれば、天武天皇の「占星臺」は最低限同じ様式の「石造の楼」でなければならないが、日本にはそのような実物はもちろん記録もない。また「瞻星臺」を天文台と見た場合あまりにもその様式は合理性が無く使用形態も不便である。天武天皇の時代であれば星見台は「漏刻臺」の露天の屋上の方が時計も備えており合理的で機能的にも十分である。またこの「漏刻臺」は飛鳥の水落遺跡の場所で660年には稼働しており新羅の漏刻の導入より58年早い。なので、飛鳥の「漏刻臺」より15年も遅れて新羅の「瞻星臺」を導入する理由はまったくない。


水落遺跡の水時計建物の復元想定図の不備(屋根)
 水落遺跡の水時計建物(漏刻臺)の想定図には2階は壁のない吹き抜けにしているのにもかかわらず全域に「屋根」がついている。この「屋根」は発掘結果をもとにした再現図では無い。[文献6 p.18]の「水時計建物の想定図」の説明にも、『もし天体観測をおこなうものであったならば、もっと開放的なものであったと考えられる。』としている。【注2】この「屋根」は強度を考えた設計になっている建物の構造から考えても不必要である。「枕草子 156段」の漏刻鐘楼の記述を参考にすべきである。この「屋根」は発掘では不明の「『漏刻臺』での天文観測」を、無意識ながら、明確に否定してしまった点で問題があり重要である。いまだに「占星臺の瞻星臺起源説」が生き延びている一つの理由である。(例えばNHKの歴史秘話ヒストリア 平安京ダークサイド 陰陽師・安倍晴明のヒミツ(2017/08/04) 37分あたりで何の説明も無しに新羅の「瞻星臺」の絵を使って天武天皇の占星台としてとんでもな時代考証である。) 古代の天文台の形態については北京に残る古観象台も参考にできる。ここでは観測機器が露天の雨ざらしで置かれている。青銅でつくられているので鉄より錆びにくい。


[飛鳥村・水落遺跡現地説明板より]

 下右図は水落遺跡(660年頃)をもとにした屋根なしの場合の漏刻臺(占星臺)の概略図。このような楼が既に天智天皇の時代にあった。また下図右は後の時代の陰陽寮の記述である約300年後の枕草子の時司の記述、約500年後の中右記の漏刻が置かれていた鐘楼の記述とも矛盾はない。多くの天文記録が記録が残っている平安時代でさえ、天文観測は都の中心、内裏の前の陰陽寮で行われていたことを再認識するべき。また、近世でも渋川春海は貞享年間に安倍(土御門)泰邦の梅小路の庭先で渾天儀を使い星の位置を観測した。丘の上の見晴らしの良い場所に占星台を建てて天文観測が行われたとするのは光害を避ける必要のある近代の天文台をベースにした誤った考えである。

 ここで、新羅の「贍(瞻x)星臺」と較べてみると、「贍(瞻x)星臺」は高さは9.1mだが上部の直径は2.85mで、「漏刻臺」の柱の間隔(1間)分しかない。従って「贍(瞻x)星臺」の上部に四角形に梁を渡したとしても天智天皇の「漏刻臺」の屋上の1/16の広さしかないことになる。このことからも天武天皇が天体観測のために「贍(瞻x)星臺」と同様な建造物を建てる合理性はないことが分かる。

結論
 1)そもそも「瞻星臺」は当て字であり、本来は「贍星臺」で「星見楼」ではない。天文観測が行われた確証も無い。
 2)天武天皇の「占星臺」と新羅の「瞻(瞻x)星臺」に関係性は無い。関係性を示す物証は皆無であり合理的な説明もできない。
 3)天智天皇の時代から存在した「漏刻臺」には漏刻の校正用の天文観測の設備もスペースもあったと考えられる。
 4)天武天皇は 「漏刻臺」と天文設備を大津から飛鳥へ移設したときに「占星臺」と改名し建て直しただけである。
 5)この時期唐との関係も良くないので天武初期に「占星臺」の天文設備を新しく唐から輸入することは無理。

【注1】
 朝日新聞社刊 金富軾訳『完訳 三国遺事』朝日新聞社(1976)p.18は崔南善『増補三国遺事』及び李丙寿の『原本并訳注・三国遺事』を原文にしているとする。筆者の入手した崔南善『増補三国遺事』(民衆書館,1946初版,1976第7版)p.59と李丙寿最近の本『原文訳注・三国遺事』(明文堂,1987初版)p.46の両本の原文では但し書きなしに「錬石築贍星臺」とあり、「目」では無く「貝」となっている。李丙寿(1987)[前書]p.4は①安順庵手澤版、②正徳板(1512)、③崔南善・増補本、④朝鮮史学会本のすべてを参考にしているとしているので、単なる誤記の可能性は低いと考えられる。逆に(瞻?)を注記した金富軾氏がおおきな違いに気づいたことになるが、さらに原本までは遡っていないので(?)としたと思われる。

【注2】国立飛鳥資料館編 「飛鳥の水時計」飛鳥資料館図録第11冊(1983) p.18より以下引用
 『以上のことから考えうることは、第一に、建物がかなりの高さを持つということである。しかし、高いといっても、往座や柱痕跡から、柱は本径で40cmを越えないので、五重塔や、50mに及んだといわれる復原出雲大社のような並みはずれた高さにはならないであろう。したがって、その規模は2層、具体的には、建物の高さは9mほどが限度であろう。この条件からは下層に水時計を置き、上層に鐘ばかりでなく、水運渾象などを置くようなことも可能である。第二に、屋根は瓦葺でないことは確かであるから、板葺や草葺に類すると考えられる。その形式は平面からは宝形造が思いうかぶが、決定的ではない。第三に、外壁や柱間装置にいたってはまったく想像の域を出ないが、たとえば下層に漏刻を置いているのであれば保温や防塵のために、柱筋通り二重の壁体による厳重な閉鎖性が要請されるであろうし、一方、上層が鐘楼や、あるいは、天体観測の場であればなおのこと、これとは逆に開放的であることが必要になってくる。この点では、後の『延喜式』にみられる漏刻台の幔の記載などが思いうかぶ。
 なお、時を知らせる鐘、鼓に関しては、直接、その形状を記録した史料に乏しい。ただ、鐘については、『廷喜式』の「陰陽寮式」に鐘の撞木の寸法が記されている。それによると、長さは1丈6尺(約4.8m)、周囲の長さ3尺(約0.9m)、つまり、太さ30cmほどの長大な撞木である。これに対応する鐘も、撞座が30cm以上もある巨大なものであったと推測される。「民に時を知らしむる」ための鐘も、やはり、これと同様にかなりの大きさを必要としたであろう。また、鐘は吊すものという考えからすると、現存する寺院の鐘楼の形態も、水時計建物の復原に、何らかのヒントを与えるのかもしれない。

 本図録にかかげた復原図も、あくまでその一案にすぎない。ひるがえって、『日本書紀』において、水時計は「楼」でも「殿」でもなく「臺」に置かれたと記されていること、そして、現存する歴史的な天文観測施設は、中国では屋内でなく露出して置かれていることなどを考えあわせると、中国歴史博物館にある復原された北宋の水運渾天儀のような形式、あるいは絵図に残る江戸時代の天文台のような形式の建築も、上記の構造的な条件に矛盾せず、あながち復原像として否定し去ることはできないかも知れない。水時計の建物がどのようなものであったのか、ここに古代への夢がまたひとつ新たに加わった。』

参考文献

 



2019/03/06 結論の文言修正。
2019/01/26 【注】2追記。漏刻台復元図追記。
2019/01/23 【注】1/参考文献追記。
2019/01/21 参考文献修正。
2019/01/13 「贍(瞻x)星臺」に修正。
2019/01/12 新羅の「瞻星臺」写真の追加
2017/10/30 漏刻臺概略図追加
2017/10/28 記述修正
2017/10/28 Up

Copyright(C) 2017 Shinobu Takesako
All rights reserved