野尻抱影著作の中の「カルデア」




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    このページは2016年に書いた記事です。
    最新情報は「星座の起源・カルディア人羊飼い説」の成立過程を見てください。
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    野尻抱影氏の著作につき星座の起源やカルデア人に関係あるとことを抜き出してみました。
    まとめると以下となります。
    1)最初から「Chaldean shepherds説」に染まっていた。
    2)野尻抱影氏の星座の起源でいうカルデア人はバビロニア人以前の民族をさしている。
     これは村上氏[星座の歴史と境界線]の章にある「初期バビロニア即ちカルディア文化時代」という記述にあるように昭和初期の時代には日本では一般的表記だったみたい。
    3)『星座春秋』にあるように「星座を含め天文知識がシュメール人起源」であることは認識していた。
     シュメール人は2)でカルデア人に含まれるため「星座の起源カルデア人説」と矛盾しなかった。
    4)バビロニア人は都会人(文明人)それ以前は牧羊民(未開人)という思い込みが抜けなかった。
      (実際にはシュメールも都市国家だったのに。)
    Chaldean(BC7世紀以降)

    Babylonican(BC20世紀)

    5)1930年に出版された「Ur of the Chaldees: A Record of Seven Years of Excavation.」by WOOLLEY, Sir Leonardの影響を受けて旧約聖書のカルデア人を再認識している。
    6)昭和16年に入手した「Primitive Constellations(1899)」を読み込まれたはずなのにこの時期以降新しいバビロニアの話題が盛り込まれていない。戦前の情報で内容が止まって更新されていない。


    『星座巡禮』 (大正14年,1925)


    p.175 星座(constellation)
     空を斯く初めて星座に区画したのは、天文学者では無くて、紀元前三千年にも遡る古代カルデアの羊飼いです。彼らは長い夜々寂しい丘に羊の群れを守りながら、大空に移る星の位置で時刻を判断する習慣になっている中に、目ぼしい星を連ねて、其処に地上の動物や物の象かたちを空想し、その名をその区域に付けるやうになったのです。それのみならず、更にそれらを組み合わせていろいろの空想的な物語を考え出しました。そのいくつかが今日までも伝わっています。そういう動物や物の名には、命名者に親しい関係の物が選ばれるのが自然で、例えば羊、牛、蟹、獅子なぞはあっても、象、鰐、駱駝、虎などの無かったことから判断すると、印度人や埃及人はこれに預かっていないことがわかります。及び、自分たちには見えない空は含まれないのも当然で、これから判断すると、最初の命名者達は北緯三十八度付近に棲んでいたものに相違ない、即ち、ユーフラテスの谷に棲んでいたカルデア人であると言うところに帰着します。と言って元来が厳格な研究的意義から出た区画では無いので、自然どの星座にも属していない星もあった訳です。

コメント: 欧米作品の影響で最初の作品の時点で「カルデアの羊飼い説」は既に完成している。

    『星を語る』 (昭和5年,1930)


    p.109 西暦紀元前二千年の頃、ティグリス・エウフラテスの河谷にあったアッカディアでは、銀河を「大蛇」とも呼び「羊飼の小屋の川」の意味でも呼んでいた。これは羊の群れが砂漠であげる砂煙を、銀河の白々とした色に見立てたものと思われる。

コメント: アッカディアとある情報は基本「Star Name」by R.H.Allenよりと思われる。

    『星座風景』 (昭和6年,1931)


    p.46 モオンダによれば、牡牛座のαアルデバランは春分点に近く、又獅子座のαレグルスは夏至に、蠍座のαアンタレスは秋分天に南魚座のαフォーマルハルトは冬至(水瓶座にあった)にそれぞれ近い星としてロイアル・スタアの意味で呼ばれていたという。これは約西暦前二千七百年頃で、バビロニアはまだ南方のスメリアと北方のアッカディアとに分立していた時代である。(春の太陽と白羊宮)

    p.48 先ごろ古代カルデアのウルで出土した金銀細工の牡羊の副葬品も、これの犠牲を現したもので、旧約聖書のウルを生国としたアブラハムが神に試みられた燔祭の『牡綿羊』(おひつじ)を偲ばせるとともに、当然連想は牡羊座へと馳せるのである。(春の太陽と白羊宮)

    p.146 オリオンの語源は、ブラウン氏によれば、ウル・アンナ(天の光)で西暦紀元前四千七百前のエウフラテスの谷に求められると言う。これが事実ならば、吾々は、少なくとも六千年以上も昔の牧羊者の目で、あの星座を仰ぐのが本当だろう。(オリオンをも欺くも見る)

    p.162 星に関する知識が相当行きかっていた事実は、彼らの先祖のアブラハムの出たカルデアが、天文学発祥の地であったことと、今日での星座の大半が、旧約で名高いノアの大洪水の前後、恐らく紀元二千七百年頃に、既に空に区画されていたことからも判断されるのであります。従ってアブラハムが、カルデアのウルを出て、遠く埃及(エジプト)へ、また埃及からカナンへと、轉々していた間にも、この老人や大勢の子孫が、夜々鋼鉄色の砂漠の空にきらめく星座を指さして、神の栄光を説き、時刻を測り、明日もまた駱駝の旅を続ける方角を語り合っていたことは、これは私一個の想像ではないのであります。(ベツレヘムの星の正体)

    p.209 オリオンの名も古代カルデアのウル・アンナ(天の光)から出ているので、これは太陽神を讃えた名であったと言う。(リージェル)

コメント: シュメールとアッカドの位置関係は正しいが、旧約聖書の「カルディア人のウル」(Ur of Chaldean)と星座創造を結びつけている。これは1930年に出版された「Ur of the Chaldees: A Record of Seven Years of Excavation.」by WOOLLEY, Sir Leonardを読んだためと思われる。改訂版の日本語訳版「カルデア人のウル」(1986)の冒頭には改訂者がこう書いている。「p10-11 アブラハムの聖地としてのウルの名声は、ユダヤ教とイスラムの文学的遺産の中で、特別の位置を与えられてきた。ウーリーによって終始一貫して論じられた見方に反して、テル・エル・ムカイヤル、すなわちこの本のウルが『創世記』11.29-32の「カルデア人のウル」と一致したと言える証拠は実際にはない。アブラハム自身の存在、彼の社会的民族的起源、彼の歴史、年代記、とりわけ『創世記』の謎の十四章に対する彼のかかわり合いに関して、なんら意見の一致を見ない。」 従って、上記野尻本の旧約聖書の「カルディア人のウル」の見方が「Ur of the Chaldees: A Record of Seven Years of Excavation.」(1930)から影響を受けたことが分かる。

    『星座春秋』 (昭和9年,1934)


    p.147 私は先頃、R.C.トムソンが、大英博物館所蔵のバビロニア・アッシリア出土の瓦板につき楔形文字を翻訳した「ニネブェ及びバビロンの魔術師及び占星家の報告」を手に入れることができた。これ等の報告は、北のアッスル、南のエレクを初めディルド、クサ、ニップル、ボルショパ等々の都市に派遣されている占星家たちが、その観察した天象を占って粘土板に刻み、早馬で国都に送ったもので、太陽、月、星、雲、地震、雷等に亘る二百七十七項の預言を含んでる。これについては更に書く機会があろうが、現今の天文学者が軽蔑する九星家の祖先が、如何に精細な天象観測を行っていたかに驚かされる。(中略)バビロニア及びアッシリアでは、蠍座をアクラブといひ、楔形文字ではそれを伝えたスメリヤ名で、ギルタブと書いた。

    p.154 それなら、バビロニア及びアッシリアに於ける蠍の宗教上の位置はどうだったか。身辺の書からそれを穿鑿(せんさく)してみる。それにはなにを措いても、叙事詩「ギルガメッシュ」を引用しなければならない。これは英雄伝説と自然神話との融合したもので、天文知識などと同様、先住民族スメル人から伝えられたものである。それを刻んだ十二枚の瓦板が一八五四年に発見されたのは、ニネベのアシュルバニパル王(世紀前六〇六年即位)の宮殿獅子の間廃趾からだった。計三千行にも及ぶ大詩篇である。

    p.255 月の神はシン或いはナンナルと呼ばれ、その大社はカルデヤのウルにあった。

    p.258 R.H.アレンの説をはさめば、カペルラはバビロニアの前代であるアッカディアではディルガン・イク(光の使い)と呼ばれていたし、バビロニアになっては、ディルガン・バビリ(バビロンの護り星)と呼ばれていた。

コメント: この時点で星座及び天文知識の起源はシュメルであることを認識していた。

    『星』 (昭和16年,1941)


    p.118 又、私は幾たびか丸善を通じ、又倫敦の古本屋に紹介しても手に入らなかったR.ブラウンのPrimitive Constellations(1899)二巻が今年(昭和16年)の三月、丸善の学鐙に在庫のレアブックとして掲げてあったのに驚かされた。そして起きぬけに人をやって求めることが出来て、今のところ朝夕これに没頭している。

コメント: この本には以下の記述がある。
    ROBERT BROWNの「Reserchs into the origin of the PRIMITIVE CONSTELLATIONS of the Greeks, Phoenicians and Babylonian」(1899)
    Vol.2 page 225-226
    「Writers have often told us, speaking merely from the depth of their ignorance, how 'Chaldean shepherds' were wont to gaze upon the brilliant nocturnal sky, and to imagine that such and such stars resembled this or that figure. But all this is merely the old effort to make capital out of nescience, and the stars are before our eyes to prove the contrary. Having already certain fixed ideas and figures in his mind, the constellation-framer, when he come to his task, applied his figures to the stars to his figures as harmoniously as possible.」

    和訳「 作家はしばしば彼らの無知の深さから、どのように『カルデアの羊飼い』が、見事な夜空を見つめて、星々が、これ、またはあの姿と似ていると想像していたかを私達に語った。しかし、すべてこれは無知さ隠す古い努力であり、星々はその正反対を証明するために、私達の目の前にある。星座の構成者(constellation-framer)はすでに固定されたアイデアと姿を心の中で持っていて、彼がその課題に向かった時には、彼の考えた姿をできる限り調和するように星々に適用した。」

    『星の神話★伝説』 (昭和23年,1948)


    p242 バビロニアの星座
     今の天文学、従って星座が誕生したのは、西アジアにあったバビロニアであると考えられている。即ち、メソポタミア(「河の間の国」という意味で、チグリス・ユーフラテス両河の間にある)地方に栄えた最古の文明国である。しかし、バビロニアに、こういう星の知識を伝えたのは、世紀前三千年ごろ、東の山岳地方から侵入し、そこに建国したカルディア人であった。彼らは放羊の民族だったので、夜どおし羊の番をする間に星をながめた。それで、星をのことを「天の羊」、惑星を「年よりの羊たち」と呼んでいた。そして星うらないを深く信じていたので、その必要から、黄道に十二の星座をもうけ、その他の部分にも、いろいろの星座を考え出した。
     カルデア人はやがてバビロン人に征服されたが、同化されたのは国語だけで、法律や、宗教や、特に天文知識と星うらないは、そっくりバビロニアへ取り入れられて、ますます盛んになった。どの都会にもジッグラッドという段々になった四角な塔を建てて、頂上にその地方の神をまつり、神官は段の上から広い砂漠の上の透明な空をあおぎ、天文の観測をやった。

    p253 こういう組み合わせは今まで書いてきたように、大部分がバビロニア、更にその前のカルデア人が工夫したもので、しかも、初めからばらばらに設けたものではなく、少数の人が星空を細かく観察し、すばらしい知恵を働かせて作ったものであることがわかる。

コメント: 「Primitive Constellations(1899)」の影響で「羊飼い」の匂いは残しているが、『星座巡禮』での「古代カルデアの羊飼い」から「カルデア人の少数の人」に代えている。
同様に「Primitive Constellations(1899)」ではアレキサンダーの東征以前のバビロニア地方は「Euphratean」としか呼んでいないので、これまであったアッカディアやシュメールの情報は削られ、バビロニアだけになっている。

    『新星座巡禮』角川文庫 (昭和32年,1957)


    p127 こういう考察から現在の星座の起源は、西アジアのメソポタミア(現在のイラク)に栄えたバビロニアで、それも最初は東の山岳地方から移住してきてやがてバビロニア人に征服されたカルディア人に発していることが明らかになりました。カルデア人は放羊民族で、夜もすがら羊の群れを守りながら、砂漠の空一面にきらめく星を眺めて、その推移から時刻を知り、天候を占い、また他に移動していく季節を判断している間に、自然に目ぼしい星を連ね、自分たちの親しむ或いは恐れている動物や、進行している神々などの形を空に描き出して、それらを命名しました。特に黄道に沿う十二の星座は、そこを動き回る惑星を観察して民族や個人の運命を占う必要から設定されたものでした。
     こういう天文知識と占星術とが当時の文明国だったバビロニア人に取り入れられて急速に進歩しました。どこの都会にもジッグラッドという四角な形の塔が建てられ、頂上にその地方の神をまつり、神官たちは段の上から広い砂漠の上の透明な空をあおぎ、天文の観測し、異常な天象を発見すればそれを粘土板に刻んで首都へ報告しました。この結果、黄道の十二星座のみでなく、その他の部分も星座で区画されて、現在の星座に通ずるものもいくつか含まれており、その名の発見されたものも約二百に上っています。それが又、バビロニアを征服したアッシリアに伝わってあちこちの廃墟からそれを物語る遺品が発掘されています。

コメント: 『星の神話★伝説』(昭和23年,1948)では改善の色が見え始めていたのに、関わった”編集者”のせいか、結局「星座の起源はカルデアの羊飼い天文家でそれを文明国のバビロニアの神官天文家に伝えた」という構図に戻り完成している。最後までバビロニア以前は「Chaldean shepherds」(草原の牧羊民)という概念から離れられなかったみたいです。


2016/08/08 Up

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