帝星(β UMi)は古代の北極星ではない



1.はじめに

 能田忠亮「東洋天文学史論叢」(1943,1989復刻)は後漢の頃に編纂されたとする『周髀算経・下』にある以下の「北極璿璣四游(ほっきょくせんきしゆう)」と呼ばれる方法で使われる、「北極中大星」(星座北極の明るい星)を帝星(こぐま座β)としそれを北極星と同定した。以来その同定が検証なしに継承されている。

    『①欲知北極,璿(璣)周四極。常以夏至夜半時北極南游所極,冬至夜半時北游所極,冬至日加酉之時西游所極,日加卯之時東游所極。此北極璿璣四游。正北極璿璣之中,正北天之中。②正極之所游,冬至日加酉之時,立八尺表,以繩繫表顛,希望北極中大星,引繩致地而識之。又到旦,明日加卯之時,復引繩希望之,首及繩致地而識其端,相去二尺三寸。故東西極二萬三千里,其兩端相去正東西。中折之以指表,正南北。加此時者,皆以漏揆度之。③此東、西、南、北之時。其繩致地所識,去表丈三寸,故天之中去周十萬三千里。何以知其南北極之時?以冬至夜半北游所極也北過天中萬一千五百里,以夏至南游所極不及天中萬一千五百里。此皆以繩繫表顛而希望之,北極至地所識丈一尺四寸半,故去周十二萬四千五百里,過天中萬一千五百里;其南極至地所識九尺一寸半,故去周九萬一千五百里,其南不及天中萬一千五百里。此璿璣四極南北過不及之法,東、西、南、北之正勾。』『周髀算経・下』

     上記「北極璿璣四游」の概略は以下である
    ① 北極樞を知りたい時には、星座北極が璿璣(渾天儀)の四方を巡ることで分かるというもの。
    ② 具体的には、棒を地面にたて棒の頂点と星が東端および西端にあるときを結ぶ線が地上に落ちる点を結ぶことにより東西がわかり、それの垂線が南北になるということ。
    ③ ②の算術的な説明。

 ②が実際に行われた方法としてよく説明されているが、棒の先端につけた紐を目測でのばし地上に印をつけるので、太陽の影を使う方法より精度が大きく落ちるのは明らかである。さらに漏刻による正確な時刻測定を指定(皆以漏揆度之)しているにもかかわらず、後漢当時では天象が2時間以上ずれでおり片方の観測が昼間になってしまう。したがって②③は実際に行われた方法ではなく、①を地上に投影して説明しているだけの意味しかない。この方法を古代の星による方位測定法とするのは明らかに誤りである。またこの測定法を極星法とよんでいるものもあるが、帝星は極星(北極星)ではないのでこれも間違いである。

 なお後半に「南極」や「北極」という語があるが,「東西極」もあるように,ここの「北極」は「北の天極」を略した「北極」という単語ではなく,「北の極み」「南の極み」「東西の極み」である。

 

2.帝星が北極星(極星)ではない理由

 能田忠亮「東洋天文学史論叢」(1943,1989復刻)p.105は帝星を北極星と同定した理由をこう書いている。

    『天樞(∑1694 Camelopardi)より右樞(α Draconis)に至る間で、その間に何人にも見え得る著しき星座といえば、四記天官書に云う天極星(星数四)即ち  γ,β,5R,4R Ursae Minoris
    より外存在しない。此の内北極星と考えられるのは帝星(β UMi)である。蓋し他の何れよりも最も赤明にして何人にもよく観測し得るが為である。』
したがって、北極星を同定した理由は、古代の北極星の条件ではない「明るさ」のみということになり、この同定は根拠をもたない。また「北極璿璣四游」のいう星座・北極の星数は極星を含む5星(晋書天文志)であり、古い時代の天極星(星数四)で考えたことも同定の誤りの原因である。

 さらに帝星が北極星でない確定的な証拠は上記「北極璿璣四游」の本文にある。この文は「欲知北極樞」(北極樞を知らんと欲すれば)で始まっている。「北極樞」は本文に「正北天之中」(北天の中心にある)とあるため天極にあることには違いはないが、「北極樞」を訳せば「(星座)北極の樞(星)」の意味である。したがってこの天極にある樞星が北極星(極星)であるので、文中にある「北極中大星」(星座北極の中のあかるい星)が北極星であることはありえない。この文の編者は『晋書天文志』の編者と同じく、北極の樞星が天極(天の中心)にあることを前提に記述している。この文章が編纂されたのも後漢から晋代の頃になる。その時代天極近くに樞星(HR4852)があった。また、帝星のことを「北極中大星」(北極の中の明るい星)としていることにより、「北極」が星座名であることは明らかである。北極が星座名でないと、「北極樞」の四方を周る「北極」の説明もできない。また『唐開元占經』[卷六十九 四輔星占二]にも図1のように『甘氏曰四輔四星抱北極樞』(甘氏曰く星座四輔四星は星座北極の樞(星)を抱く)とあり北極樞は星座北極の第5星である。三国時代、呉の太史令陳卓が甘氏・石氏・巫咸の三家の星座をまとめたとされているので、「北極樞」の星名はそれ以前に成立していたことになる。

 能田忠亮「東洋天文学史論叢」(1943)はこの文章を、「北極樞」を天極、四方を周る「北極」を北極星と解釈している。しかし、天の北極点は中国では天極とよばれ、北極ではない。北極星も極星である。古代文献に北極星とあれば、それは「星座北極の星(々)」を意味する。したがって「北極樞」を天極、「北極」を北極星とするのは単純に誤った解釈である。誤った原因は「北極璿璣四游」の成立がその記述と天象が合致する周代(BC1100年頃)と考え、まだ「星座北極」は成立しておらず、さらに、その時代に天極付近に星はなかったと考えたからである。

 図1は当時(AD200年)の星座北極付近の星図である。この時代の星座北極の樞星はHR4852(6.4等)である。HR4852は図にあるように天極の移動線上にある。高松塚古墳の星宿図にあるように,この時代の星座・北極の5つの星は直線的に並んでいた。この極星は隋代前後に∑1694(HR4893)に交代する。

図1 星座北極付近の星図(AD200年)

3.まとめ

 「北極璿璣四游」は能田忠亮「東洋天文学史論叢」(1943)の解析により、周代(BC1100年頃)の方位測定法が伝承されていたものとの考えもあるが、星座である「北極」を前提にしているので、後漢から晋の時代に編纂され成立したものである。「北極璿璣四游」に「北極樞」とあるように、この時代には天極に樞星(北極星)があり、帝星は北極星ではない。したがって、方位の測定にはこの北極星である「北極樞」を用いればよいので、「北極璿璣四游」にある帝星を用いた測定法は天極付近の説明のためであり、実際に用いられた方位測定法ではない。

【注】「北極樞」については、船越昭生「マテオ=リッチ作成世界地図の中国に対する影響について」地図 9巻2号(1971)が引用する徐昌治編『聖朝破邪集』に収められる魏澹撰「利説荒唐惑世」の一文に『北極樞星乃在子分。則當居正中。』(北極樞星は子(北)の領域にあり、其れはまったく中心に居る。)がある。魏澹は中国の北斉から隋にかけての学者。

 



2020/12/28 項目1.後半の「北極」の説明を追記
2020/03/06 注を追記
2020/03/01 修正
2020/02/29 UP
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