『キトラ天文図』に関する誤解




【1】『キトラ天文図』は星図ではない

     NHKで『キトラ天文図』は『最古の精緻な天文図』と宣伝されたため、『キトラ天文図』が星図と勘違いした視聴者がいたかもしれない。しかし、『キトラ天文図』は星図ではない。星図は星の位置を示した図であるが、『キトラ天文図』の星の位置に実際の星は無い。

     以下の図は奈良文化財研究所『キトラ古墳天文図 星座写真資料』(2016)PL.3に『格子月進図』から同定した星図を重ねて表示した図である。この図から実際の星図にくらべ『キトラ天文図』は星座がおおまかであることがわかる。 「中国古代星図の年代推定の研究」に書いたように、『月進図』には283星座1464星が描かれているとされるが、『キトラ天文図』は74星座350星程度しか描かれていない。しかし『キトラ天文図』も円形の描画域を隙間はあるがほぼ埋めているので、一つの星座は実際の2~3倍の大きさで描かれていることになる。 従って『キトラ天文図』は天文用の星図ではなく壁画用に実際の星図を見てデザインされた装飾天文図ということになる。そのため左下部にある「庫楼」「騎官」「積卒」などの星座はデフォルメされて元の形を留めていない。このようにデフォルメされた星座絵の星の下に実際の星はない。

     『キトラ天文図』の28宿の距星の位置は比較的合っているので、下図の作成手順としてはまず北極付近の重要星座と28宿の星座で約半分の描画域を描いた後に、空いた部分を特長のある星座で埋めて描いたと考える。従って『キトラ天文図』』の基本は北極と28宿を描いた高松塚古墳の星宿図と同じである。また『キトラ天文図』の「翼宿」と「張宿」の位置の違いは石室での描画時の取り違いとされるが、現状の「張宿」に「翼宿」の上下の星列を加えたら、下部の星列が外規(外円)をはみ出してしまうので、下図作成の時点でデザイン性から置き換えられていたと考えられる。「九州殊口」(筆者は「天苑」と考える)や「天倉」、「天庚」、「鉄鎖」周辺の位置関係の違いも同様と考える。その他黄道の反転を含め『キトラ天文図』ではその用途から天文学的な正確性はあまり求められていない。この下図は他の壁画の下図と伴に唐でデザインされた図(粉本)が日本に持ち込まれたものと考えられる。

      天文学的具体的な間違いは以下。
    ①黄道の左右反転
     以下の図には緑色でAD650年頃の黄道の位置を記入しているが、壁画図では左右対称に近い間違いの円を描いている。
    ②外規(外側の円)の半径が小さすぎる
     ほとんどの解説では内規には注目しているが、外規のことは無視されている。外規から計算した観測地の緯度は約45°となり、内規から計算された緯度と7度も違う。以下の図で見てわかるように「老人星」などの星座が実際には画角からはみ出している。しかし壁画図には「老人星」は描かれておりこのことからも天文学的な星図でないことがわかる。従って内規だけが正確に描かれているという保証はどこにもない。外規の大きさについては壁面の大きさにより削られたとの解釈もあるが、壁面に合わせて削られたとみられる星座は無くその解釈に根拠は無い。この壁画は28宿の「尾宿」(さそり座の後部)以北の星座を描いており壁画図の主体が28宿であることを示している。
    ③内規(内側の円)の半径が大きすぎる
     内規から計算した観測地の緯度は約38°となるが、NHKのコズミックフロントの『キトラ天文図特集』でで相馬充助教がのべているように、星座「文昌」の実際の位置からみると、この内規は大きすぎ実際には長安や洛陽の緯度である34°程度で壁画図に描かれた位置関係と同じくなる。したがって「文昌」を大きく描いたために内規も大きくなったと考えられる。下の図で実際の「文昌」や右上の「八穀」に合わせて描くと内規は小さくなる。この関係は歳差による変化が少ないため年代の推定には使えない。
    ④星座「張宿」と「翼宿」の置き換え
     28宿の一部である星座「張宿」と「翼宿」の置き換えられている。前述のように現状で置き換えた場合、外規をはみ出すので下絵の段階で置き換えられてた考えられる。
    ⑤星座が拡大されている
     少ない星座で全体を埋めるために星座が拡大されバランス良く配置されている。したがって描かれた星の下には実際の星は無い。

       以上のように『キトラ天文図』は天文学的には星図では無く、見栄えが重要視されているデザイン画である。

     
                    【『キトラ天文図』&『格子月進図の同定図』】
    オレンジの星等:下層の図は奈良文化財研究所『キトラ古墳天文図 星座写真資料』(2016)PL.3より。
    黄色の星: 『格子月進図』で同定した実際の星を円形図で描いた図。緑色の星は距星。星の位置及び緑の黄道はAD650で計算。
           角宿の距星で位置合わせを行った。


【2】『キトラ天文図』は朝鮮半島の影響は受けていない

     『キトラ天文図』の詳細が発表されはじめた頃から、最古の天文図を元に描かれたとされていた李氏朝鮮時代の『天象列次分野之図』と比較し、影響を受けているする学者がいたため、いまだに『キトラ天文図』が朝鮮半島の影響をうけていると勘違いしている人がいる。ここで影響が無い理由を列挙する。
    ①内規と赤道の比から北緯37~38°とし朝鮮半島で描かれたとする意見。
     上記で述べたように、『キトラ天文図』は星図を見てデザインした壁画で星の位置は不正確であり、黄道や外規も天文学的計算によらず引いてあるのに、内規だけ天文学的に正確に引かれていると想定するのは間違い。また上記③より天文学的に正確で北緯37°の内規であれば「文昌」との間に星2,3個分隙間があいている必要がある。したがって内規や外規の値からは観測地は決められない。
     当初内規の計算から製作地は朝鮮でないかとされたのは、最初に公開された少ない星図のデータから精密に描かれている星図ではないかとの前提があったためで、最終的に公開された上の図の全データからは星図とよべる精度は無いことが判明している。
    ②『天象列次分野之図』のような朝鮮の星図の影響を受けているとする意見。
     「中国古代星図の年代推定の研究」で書いたように『天象列次分野之図』の原図は唐代の末期(AD850-900年頃)中国から朝鮮に伝わりその後高麗で改編を加えられた星図と推定されるので、7世紀の『キトラ天文図』が影響を受ける理由はない。 高麗で改編を加えられたいくつかの点で『キトラ天文図』で判別できるのは、「老人」の横にある弓矢の形をした「弧」のみであるが、『キトラ天文図』の「弧」は2本の矢を持つ朝鮮系星図の影響はない。(「弧」は下の星座図で狼星と老人星の間にある弓矢形の星座。)

     星座の時代による特徴の変化がはっきり分かるのが下の図の「翼宿」である。左から右に沿って時代が新しくなるにつれて3分割されていた星座が連結されていくのが分かる。唐代の星図と考えられる『格子月進図』『敦煌天文図』『天象列次分野之図』の3図の中で『天象列次分野之図』が宋代の『蘇頌星図』に近い。『天象列次分野之図』は『敦煌天文図』よりも後に描かれてその後唐から朝鮮半島(高麗)へ伝わったと考えられる。図からわかるように『キトラ天文図』は『格子月進図』に近い星図を原図としていることもわかる。逆に『天象列次分野之図』が原図である可能性は全くない。
     なお高松塚古墳星宿図の「翼宿」ははがれていてほとんど残っていないが、残っている部分からみると『キトラ天文図』と同じ図柄と思われる。図は『キトラ古墳天文図 星座写真資料』(2016)PL.3(高松塚古墳星宿図(トレース図))より。

     高松塚古墳星宿図の復元図として翼宿に『蘇頌星図』に似た翼宿の図が貼ってある根拠の無い復元図をみかけるので注意が必要。(高松塚壁画館のパンフレットなど)この復元図は高松塚古墳の「発掘報告書」に添付されていたようで 成家 徹郎「キトラ古墳・高松塚の星図の伝来を探る」(東アジアの古代文化 (101), 127-145, 1999-11大和書房)p.133で「(他の)天文図にたよって推定した復元図では、すでに高松塚星図ではない。」としているが20年経ても未だに何の根拠もない復元図が流布されている。このような根拠の無い「復元図」が古代星図の推定年代に混乱を招いている。さらに,英語や韓国語のパンフレットまで作られている。このことより高松塚古墳の翼宿の残片から『蘇頌星図』の翼宿を復元した当時(1972)から現在まで誰も「古代の翼宿」が3分割されているなど考えもしていなかったことがわかる。このことは『格子月進図』と比較していれば容易に判明していたことである。


    『天象列次分野之図』以外の朝鮮にあったと想像する星図の影響を受けているとする意見。
     『天象列次分野之図』の影響説は否定されたため、『天象列次分野之図』以外に別に星図があったと想像しその影響を受けたという説までてきている。その一番の理由は星の大きさで、『天象列次分野之図』は「老人星」や「狼星」などが大きく描かれておりその影響が『キトラ天文図』にもあるとするもの。しかし、『天象列次分野之図』が石刻されたのは1395年で『キトラ天文図』が描かれてから700年も後の星図である。影響があるとすれば逆の方向である。しかも『天象列次分野之図』では「老人星」、「狼星」、「土司空」、「北落師門」、「大角」、「天矢」など多くの一星の星座の星が大きく描かれているが、『キトラ天文図』では「狼星」、「北落師門」、「土司空」の3星だけある。また「土司空」に同定されている星は実際の星とは経度で45°も離れていてほぼ別な星である。「北落師門」と同定される星も「天銭」と位置が逆である。この2星は天文図の真東や真北に当たり「アクセント」として置かれたものと考えられる。したがって星の大きさや描き方に共通性は無い。また『天象列次分野之図』の「老人星」は一番大きく描かれているが、『キトラ天文図』の「老人星」は剥がれが激しく大きさの判定はできない。北緯38°の平壌では「老人星」は見えないので描かれている位置も実際の星や『キトラ天文図』の老人星と大きく違う。(「狼星」と「老人星」の経度差は『キトラ天文図』の約1°に対して『天象列次分野之図』は約12°、実際の星は約3.5°@400年,約2°@650年)

     『天象列次分野之図』の円環には回回暦(イスラム暦の漢訳)の影響と考えられる黄道12宮の文字も描かれている。回回暦の星表にはもととなったプトレマイオスの『アルマゲスト』の等級も書かれている。したがって1395年に『天象列次分野之図』の石刻図の下絵を描いた天文学者は「等級」の知識を持っていた。また石刻図の元になった原図は晩唐の星図なので星の大きさの区別は無い。よって星の大きさの区別を古代に遡ることはできない。

    そもそも実存しない星図を根拠に推定できればなんでもありの世界である。

     以上により『キトラ天文図』は朝鮮半島の影響は受けていない。


    【京都大学宇宙物理学教室所蔵『天象列次分野之図』】
    (宮島一彦「朝鮮・天象列次分野之図の諸問題」大阪市立科学館研究報告 24 ,2014 図4 (白黒反転)&『格子月進図の同定図』)
    黄色の星: 『格子月進図』で同定した実際の星を円形図で描いた図。AD400で計算。


【3】『キトラ天文図』はいつどこで観測された星空か?

     【1】で述べたように『キトラ天文図』は星図を見て描かれた絵(デザイン画)なので星の位置は適当である。図でみえるように距星の位置を実際の距星と比べるとばらばらである。「張宿」と「翼宿」にいたっては位置まで逆である。したがって『キトラ天文図』の距星の位置などから観測年代や観測地を推定するのは不毛の作業である。逆に研究者が計算の対象にする星を選択すればそれにしたがった答えが出てくる。これが研究者により違った推定年代がでてくる原因である。『キトラ天文図』の天文学的解析からは確定した答えは得られない。
     通常、星図の星の位置から年代を求めるのは、星図の作成年代を推定するためである。しかし『キトラ天文図』の製作年代はAD700年前後と判明している。これ以上の年代の追求は天文学的興味(いつの時代の観測星表が唐の時代まで星図に使われていたのか?)でしかないが、『キトラ天文図』には天文学的数値を求める正確性はない。また古い時代の星表で唐の時代の星図が描かれていることは歴史的にはロマンがあるが、天文学的には星の位置に関する進歩がなかったことになる。
     また星図に使われた星表のようにシステム的に観測ができる体制や能力があるのは古代においては中国しかないので、「どこで観測された星空か?」というのは愚問(調べるまでもない問題)である。

     筆者は2019年3月発行の日本数学史学会の会誌の「最小二乗法による古代星図の年代推定」でAD400年ごろの観測星表が唐代を通して宋代初めまで参照されていたことを明らかにした。したがって、唐代に描かれたキトラ古墳の天文図の原図も同じ400年頃の星表で描かれていたと推定できる。高松塚星宿図についても同様である。



2019/03/22 等級の記述を追記
2019/03/09 キトラ天文図の推定年代を追記
2019/03/06 外規の記述を修正
2018/08/22 外規の記述を修正
2018/08/09 老人星の大きさについて修正
2018/08/01 翼宿追記
2018/07/30 UP
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